これは、2015年11月14日に開催されたマンガ研究フォーラム「マンガのナラトロジー ―マンガ研究における〈物語論(ナラトロジー)〉の意義と可能性」の後半のやりとりの採録データ(全3回)の第3回です。他の関連ファイルは、特集ページからご覧下さい。
海外のマンガ研究とナラトロジー
中田:ちょっと、いいですか。先日野田さんが、最近の英米圏のマンガ研究におけるナラトロジーについて話してくれて、それをきっとここでも話してくれるんじゃないかなと、期待していたんですが……(会場笑)
野田:マイクとったと思ったら、ぼくに投げるためにとったの?(笑)
佐々木:さっきグルンステンの例も出ましたけども、海外ではナラトロジーという問題意識でマンガを考えている動きもあると思いますので、そのあたり、いろいろ調べてくださっている野田さん、よかったらいくつか紹介していただけたらと思うんですけれども。
野田:あの……、あとで時間があれば話そうかなっていうくらいのつもりだったんですけれども(笑)本当に、我々4人でしゃべっているのがもったいないぐらいここにはいっぱい、僕らよりもよっぽど詳しく、賢い方がいらっしゃるので(笑)早めにマイクを回そうと思うんですけれども、一方でですね、物語論とかナラトロジーといわれているものよりは、もっと広い意味で「物語」とか、「リアリティ」っていう観点から、物語とマンガの接点を作っていく、あるいは映画もふくめて考えてみる、という可能性がひとつあると思います。その一方で、佐々木先生が今おっしゃったように、物語論という、どちらかというと狭い領域で蓄えられてきた知見というのを、マンガに直接対決させながら考えていくということも、ひとつの方法かと思います。
例えば、今は海外の話を期待されているんですけれども、先に少しだけ日本の話をすると、今日の2章の、語り手への自己同期というのは、これはいわゆる、ジュネットの、「誰が語っているか」”Who speaks ?”というナレーターの問題ですよね。で、第3章の人物への自己同期っていうのは、”Who sees ?”という登場人物の話なわけですけれども、例えばですね、日本のマンガ研究では、イズミノさんがやったような視点の話とですね、視点という言葉をジュネットは嫌がったので、「フォーカリゼーション(焦点化)」という言葉を使ったわけですけれども……、イズミノさんが述べられたようなマンガにおける視点の話と、物語論、いわゆる狭い意味でのナラトロジーにおける、フォーカリゼーションの問題は、接続可能なひとつの大きなトピックだと思います。
海外のマンガ研究に目を転じるとですね、例えばグルンステンなんかは、ナレーターっていう問題を非常に重要視しますが、英米系の場合は、もちろんいろいろですけれども、ひとつにはフォーカリゼーションっていう”Who sees ?”系の問題を非常に重要視するひとたちがいますので、そういう意味では、海外のマンガ研究と日本のマンガ研究が、ナラトロジーを経由することで、つながったりするのかもしれません。
海外マンガ研究でナラトロジーに関連するものについて、少しだけお話しさせていたただきたいと思うんですけれども、まず、大雑把に、しかもかなり乱暴に、ナラトロジーそのものの流れを整理すると、いわゆる古典的、あるいはクラシカルなナラトロジーと今言われているものがあります。いわゆるロシアのフォルマリズムから出発して、フランス系の構造主義者たちが発展させていった、という流れです。もう一方で、全く別個ではないんですけれども、英米系の人たちが、小説の技法的な議論、これはフォースターとかのですね、そういうところを汲みながら、組み立てていったナラトロジーというのがあります。そして、両者を統合するようなところに、アメリカのシーモア・チャトマンとか、今日お話しにちょっとでましたけれど、これまたアメリカのジェラルド・プリンスとかがいるわけです。その時にですね、すごく暴力的に分類してしまうと、いわゆるフランス系がクラシカルなもので、最近のアメリカ系、あるいは英米系が、ポストクラシカルなもの、つまり、ニュー・ナラトロジーみたいな言い方をされるわけです。
この、『From Comic Strips to Graphic novels』という本は、ドイツの出版社から刊行された英語のマンガ研究論文集なんですけれど、序文でナラトロジー一般の動向を整理した上で、この本がどういう位置付けにあるかということが書かれています。ここでのニュー・ナラトロジーの分類に従うと、大きくわけて3つあります。ひとつは認知科学的な、コグニティブなナラトロジー、それからもうひとつは、コンテクスチュアルなナラトロジー。コンテクスチュアルっていうのは、社会的、地理的、歴史的、あるいは文化的な背景を含めて考えるということですね。それから、3つ目として、インターメディア、あるいはトランスメディアなナラトロジー。先ほど三輪さんがおっしゃったような、メディウム・スペシフィックを超えたところにある物語という観点も、ここにふくまれます。それと同時に、メディウム・スペシフィックな物語理論モデルの構築も、ここにはふくまれます。なぜなら、両者とも文学テキスト以外のものを考慮に入れた結果うまれてくる、という意味では同じものだからです。この本は、これまで構築されてきた物語理論、ナラトロジーをマンガに適用するとどういう問題と出会うか、たとえば、先ほどのナレーター、あるいはフォーカリゼーションといった概念についてマンガとともに考える、という理論的なところから、もっと歴史的な、それぞれの国でどういうふうにマンガが発展してきたか、まあ、発展という言葉が良いかどうかわかりませんが、それぞれの国でいかに育まれてきたかということまで、幅広く扱っています。たとえば、日本のことなどについても、京都精華大学のベルント先生が一文を寄せられています。
で、フランスにおいては、その、クラシカルなナラトロジーの幕開けを告げたのは、雑誌「コミュニカシオン」の第6号(1966年)における特集だったとされるわけですけれども、この雑誌はその10年後の24号でマンガを特集して、フランスにおけるアカデミックなマンガ研究の幕開けも告げるわけです。ですから、フランスのマンガ研究においては、もともと、グルンステンもふくめ、やはりフランス系ナラトロジーの影響が大きいとは言えるでしょう。ただ、最近ではあたらしい動きもあるようですね。ヨーロッパで「ナラトロジー・ネットワーク(Réseau Romand de Narratologie)」というのを立ち上げた、ラファエル・バロニという人は、もともと物語論をやっていた方で、最近「マンガ研究グループ(Groupe d’étude sur la bande dessinée)」っていうのを作って……、GrEBDという略語で検索すれば出てくると思うんですけれども……、積極的にナラトロジーとの接続を試みている、といった動きがあります。
もちろん、先ほど言ったようにですね、最初に言ったように、狭い意味でのナラトロジーをマンガに接続するというのは、ひとつの方法ではあるんですが、そのままでは上手くはいかないところもあるので、そこは、非常に難しいところです。でもマンガ側としては、それはやはり蓄積された知見として、面白い観点をふくんでいて、使えるものがあるんじゃないか、ということがあるのと、もう一方で、物語論のほうもですね、実は、ちょっと停滞しているというか、狭い所にあったのをもうちょっと広げようという欲求も今、いろいろあるようでして、むしろ、物語論自体が積極的にいろんなジャンルのあるいはメディアを研究対象にしていこうという流れがあるみたいです。その中でマンガというのも比較的最近、特に英米系では取り上げられることが多くなってきたという印象があります。それが先ほどのインターメディアという視点ですね。というのが、文献紹介という感じで……、以上です。
森本:今回、資料的なものはほとんど用意していないのですが、物語論に関連する簡単な文献リストはハンドアウトに挙げておきましたので、ご参考にしていただくといいかと思います。あと、2005年に出た The Routledge Encyclopedia of Narrative Theory の中の “comics and graphic novels” という項目のコピーも付けておきました。ごく短いものですが、マンガのナラトロジーに関するこの時点での基本認識として参考にはなるかもしれません。
佐々木:では、今まで出た論点について、四人の中でどなたか補足しておきたいことや、さらに検討したいことなどありますか。
中田:いまのお話についての感想なのですが、最近のナラトロジーの動向について聞けて、やはりよかったなと思います。ぼく自身は、フランス文学を研究するうえで見聞きしてきたナラトロジーを念頭においてコメントをさせていただいたわけですが、それはクラシックなナラトロジーなわけですね。ポスト・クラシックなナラトロジーとして、認知や文脈にもとづくもの、あるいはトランスメディアに着目したものなどがある。今日はとくに映画とマンガにお話を集中していただきましたが、森本先生の研究は、さまざまなメディアを比較しつつ論じていく、トランスメディアなものだと感じました。
自己同期と時間性
三浦:ちょっとしたことなんですが、以前、中田さんが何かで、イメージの極と言葉の極との間に、グラデーションがあって、そこに無数の作品がいろんなメディアにあるっていうことを書かれていたと思うんですけど、今日の森本先生の理論で、そこと、中田さんの以前お書きになった内容とシンクロというか、その中田さんのお書きになった内容、私もすごく共感しまして、それを形にする上で、その無数のグラデーションのあり方をどう論じていくか、ということを考える上で、今日の森本先生の発表はとても参考になる、と改めて思った次第です。それと、いきなり発表の内容で聞きたいことを思い出したので、よろしいでしょうか。やはり、野田さんがおっしゃったように、私も、「自己同期」が一番キーかな、という気がしまして。先ほど、コマが一つしかなくても妄想ないし推論によって物語を補っていくというお話しがありましたが、それは、自己同期というあり方が、そもそも時間性を伴っていて、それに起因するのかどうか、ということをちょっと聞いてみたいと思います。つまり、その人物なり語り手なりに同期するというときに、その同期先の他者を理解するということは、その他者が持っている時間性をそのまま理解しようとすることになるから、一コマであっても物語が発生しうるのか、というのがちょっと気になったんですが。
森本:質問を正確に理解しているかどうかわかりませんが、その通りだと思います。結局われわれは、自分しかわからないわけです。自分の存在っていうのは、きわめて特権的、特殊なものです。自分が生きているそのあり方というものが常にベースになっていて、それを参照しながら、伝達されてくるものを解釈し表象しているはずなんです。それは物語の場合に限りません。ですから、なにか自分と同じような挙動をするものがいるというシグナルを捉えた瞬間に、それを人間として見ている。で、当然それは時間的に存在しているものだ、というふうに投げ入れていっていると思います。さっきも言ったように、推論し妄想することが人間の根本的特徴だと思うんですけれども、棒一本と点が描いてあるだけでもそれを人間として見てゆく、それくらいの推論力が簡単に働いてしまうところが、面白くもあり、また危険なところでもあるわけです。それをどう描写によってコントロールしていくか、というのが創作の課題なんじゃないかな、と。
三浦:ありがとうございます。
森本:それと、三浦さんが最初に言われたイメージの極と言葉の極ということに関連して、ご参考までに…(資料を写す)。これは、2008年の『ナラティヴ・メディア研究』に載せたものなんですが、ナラトロジーの中で、メディアの分類が試みられている、その例として挙げたものです。野田さんのお話にもあったように、特にトランスメディアを議論する研究者は、当然こういうふうなことを考えるわけです。【図1】のライアンの表は、時間的・空間的という二項対立から様々なメディアを分けていこうとしているもので、面白いとは思うのですが、ちょっとごちゃごちゃし過ぎている。知覚的な経路が一系統か二系統かで大きく分類しているのですが、そのために「言語」の位置づけが難しくなっています。これは見づらいなと感じて、暫定的に自分で作ってみたのが、【図2】です。知覚的写実性をベースにして、対極に象徴性という属性を置いています。この場合の象徴は、シンボルつまり記号ということですが、そちらの極と知覚的な極を対比して考えてみると、こういうふうな感じで並ぶんじゃないかな、ということです。自分でもこれはあまりにもシンプルすぎると思いますが、こう並べてみると、マンガが文学と映画の中間にあるということは見えてきます。ちょっとご参考までに。
佐々木:これを見ているだけでも、色々考えることは増えそうですね……さて、時間も大分たってきましたので、会場の方にも話を聞いてみたいと思います。どなたか聞いてみたいことある方、発言されたい方、挙手をお願いします。
会場との質疑応答――マンガを読むという経験をめぐって
質問者1:(夏目氏などが論じてきた「視線誘導」の問題についての質問。森本氏は「受け手の構え」ということを述べたが、マンガの読者は構えているのではなく、むしろイズミノ氏の論じるように、マンガの中には「風が吹いて」いて、視線の流れとなって作品世界へ積極的に参入して、感情移入していく側面があるのではないか?)※以下、質問者の発言はすべて編者の文責で要約しました。
森本:「構え」という語を使ったことで誤解を与えたかもしれません。これは、受け手が語りに対してどういう仕方で臨んでいるか、その姿勢、向き合い方の最も根本的なかたちという意味で用いていて、具体的な個々の解釈を束縛するような話ではないつもりなのですが、語の選択がよくなかったかもしれません。誘導という言葉を使えば、流れを自分でどう導いているか、自分自身を流れに置いて誘導しているそのあり方、というのがここで言う構えです。
質問者1:(読者の心理とか気分そのものが、視線誘導の流れになって没入していくというような感じでしょうか。)
森本:はい。ただ、私はその視線誘導の議論については、よく飲み込めていないところがあるんですが、そこで言われているのは、画面上の様々なパーツがある一定の仕方で配列されていることに視線誘導の根拠があるということなんでしょうか。描写それ自体に根拠があるから、たとえ誰であっても、誰が読んだとしても、決まった流れに誘導されるという意味で言われているのですか?
私は、記号それ自体がある特定の効果を必然的に導くということは、ちょっと考えにくいんじゃないかと思います。ただ、いわゆるリテラシーといった問題はあります。熟練した読者の場合、受け手自身の中に、言うならば身体化されている読み方のパターンっていうのがありますよね。だから、ある慣習化された手法で描かれていれば、おおむねみんな同じように読んでいくということは当然あって、それは読みの基盤にある共同的なコードとかその学習とかの話になっていくわけです。私の問題関心からははずれますが、それはその通りだと思います。
質問者1:(慣習的なものだけでなく、物語や時間の流れみたいなものと同期する形の、イメージのラインというのが想定されるのではないか?)
森本:今日の話の中で言うと、「移動する視線」として述べたことがそれに関係するんじゃないでしょうか。それに、ある表現が必ずこの方向へ誘導するというふうに言えるかどうかという問題はありますが、明らかに視線が動いてゆくことは事実です。人によっては多少うろうろするかもしれないけれど、物語の流れを追ってゆくということはある。そうでなければ、そこにマンガを読むという行為は成立しないと思います。
三輪:横からすみません、今のやり取りをうかがっていて思い出したことがあります。今日の森本さんの発表では、タイトルに「物語経験の時間性」が掲げられ、最後は映画やマンガにおける時間の問題が具体的に考察されていました。ところがそのとき、マンガ論のなかで頻繁に言及される「読みの時間」の問題が出てこないのが面白いと思ったんです。どういうことかというと、マンガと映画を比較する議論のひとつのパターンとして、「映画では時間の流れが勝手に決められているが、マンガは読者が自由に読みのスピードを決められる」といった主張があり、そのことをマンガの特性、マンガの優位性として顕揚する言説が多々見られるんですね。ところが森本さんの議論では、そういう話が時間性の問題としては全く出てこない、気にかけられていないように思います。それはなぜかと考えてみると、森本さんの議論でいう「現象学的時間」に立ち返るなら、すべては受け手の体験の問題として考える必要があり、その水準においてはもはや、映画であれマンガであれ、「物語経験の時間性」は受け手各人によってバラバラだということでしょう。したがって、この根本的な水準における受け手各人の現象学的な時間性の違いと比べれば、鑑賞の流れがあらかじめ決められているか自由に決められるかというのは、もはや二次的な問題にすぎない。私が理解した限りでの森本さんの議論では、そのように捉えられるのではないかと思うのですが、いかがしょうか。
森本:そうだと思います。文学も同じです。自分で読みのスピードをコントロールできるという面はもちろんありますが、むしろそれよりは、作品の中で、たとえばジュネットが時間について論じているような、語りの時間と出来事の時間が描写の中でどう組み合わされているかみたいなことの方が、物語経験にとっては重要だと思います。ラフに言えば、早く読もうと遅く読もうと、読んでいる瞬間においてやっていることは同じだろうということです。実際の読みの時間ということで付け加えると、さきほども言ったように、物語というのは、順行というか、逐次的に話を追っていくことを要求しているものだと思うんですね。だから例えば、映画をビデオで見ているときに、止めて巻き戻すとか、私はよく3倍速くらいでサスペンス映画を見たりするんですけれど(笑)、そういうのは明らかに邪道なわけで、それは物語をないがしろにしているわけです。小説やマンガを途中で読み直すっていうのも同じです。物語は、逐次的に経験されて徐々に世界が積み上がってくるところに、その本来的なすがたがある。「あれ、あそこどうだったっけ?」と10ページ前に戻って読むというのは、なんだか邪道じゃないかという気がするんですよ(会場笑)。記憶しているものを束ねながら徐々に進んでいってるところに、別の経験が入ってきてしまうからです。まあ、実際の読みの中では、そういうことをやりながら進むのが普通ですし、それができるところが小説やマンガの利点ではあるんですが、なんと言うか、モデルとして考えるときの基本は、やっぱり順番に追って行くということだろうと思うのです。話がちょっとずれちゃうんですけど、テキストを批評的に論じる際に、例えば蓮實重彦さんなんかは、同じような形象がテキストの至る所に散りばめているというような読み方をしますよね。きわめて精密な読解ではあるんですが、これって普通に読んでいる時に気づくんだろうかって思うわけです(会場笑)。事後的な分析、批評的な読みとしてはすごく面白いけれど、物語経験の現場からは離れた読み方だなと感じるわけです。無意識みたいなことを言い出せば、話は違ってくるのかもしれませんが。
中田:三輪さんが言われていたような、マンガの読み手が時間を作りだす作用というのは、やはりこのメディアの重要な特性だと思っています。もちろん、読み手が時間を作れると言っても限度はあるはずで、じっさい森本先生は、マンガも10ページ戻って読むのは邪道だというふうに言われた。とはいえ、「移動する視線」の話を思いだしても、やはりわれわれはページのなかでは前のコマに遡ったり、ときにはコマの読み順を間違えたりもするわけですよね。そのように彷徨う視線が、ページという範疇を超えて遡ってもいい、という立場もありえるかもしれません。ページという境界を絶対的なものと考えるかどうかという問題は大きいもので、いまは断言できません。いずれにせよマンガというジャンルには、作者が誘導する視線の方向を踏みはずす邪道の権利が、読者にかなりの程度あたえられている。
今日、森本先生の発言のなかでも一番ラディカルだとぼくが感じたのは、コマという形式自体が動きを作っているわけではない、というものでした。むしろ、語り手に自己同期した読者が、動きを見いだしていくというわけです。ぼくがナラトロジーをまだ記号論的に考えすぎているからかもしれませんが、この発言はやはり読者の役割を大きくとらえた、ラディカルなものだと思います。おそらく、映画や小説については、ここまでは言えないのではないでしょうか。たとえば、小説において文章という形式自体が運動を語ることはない、と言うとしたら、これは超ラディカルなわけですよね(笑)。しかし、マンガに関しては、読者の役割についてそこまで大きく考えることができる。ここには、マンガだけに語りうるナラトロジーの特異点があるのかもしれないと感じます。
森本:ありがとうございます。あんまりその、邪道というところにこだわられると困るんですけど(笑)。もちろんマンガの場合、コマの重要性というか、コマがとにかく物語の骨格を作っていくというのは否定しようもないわけですから、そこは全然問題にしていません。私が言いたいのは、どんな記号表現であっても、解釈されてはじめて意味作用を行うのであって、記号それ自体が何かを意味しているわけではないという、それだけのことです。私などは、70年代に研究を始めたので、やはり構造主義・記号論的な発想の枠組みに染まった時期というのがあるわけです。その頃は、作者は死んだ、テキスト自体が語る、みたいな言い方が盛んになされていたわけですが、それはちょっとどうなのかなと思うんですね。テキストは何も語らないのです。テキストを見た受け手が解釈することによって、そこに意味というものが捉えられる。意味というのは、記号と世界とを繋ぐ機能ですから、記号を受け取って、「イヌ」というのはあそこにいるあの存在だというふうに結びつけるところに現れてくるものです。誰かが解釈する、つまり世界へ関連づけるということがなければ、記号は何ものでもないのです。まあ、これは、結局みんな考えていることは同じで、物の言い方の違いに過ぎないのでしょうけど、私としては、受け手による解釈・推論がすべてを動かしているというふうに捉えてみたい、ということですね。
質問者2:(物語と時間との関係というのが森本氏の議論の中心にあったと思う。その問題を深める上でも、先ほどの「一コマでも必ず時間性がある」という議論について、もう少し説明をいただけないだろうか?)
森本:ありがとうございました。今回は議論を明確化しようという意図もあって、こういう形にしてみたんですが、いずれにしても、リクールなりあるいはその前にあるハイデガーなりが言う時間というのは、われわれが普通に考えている時間よりも根源的なものを名指しているわけです。一枚の絵画を見たときに、まあ、抽象絵画じゃどうかと言われるとちょっと困るんですが、少なくとも人間が描かれて物語性を感知させるような絵を見た時に、そこに、全く静止した瞬間しか見えないということがあるのだろうか、と考えたとすると、そこで、これは描かれた世界で生きている人間だという捉え方をしてしまっているとすれば、もうそこに「動き」が、つまりは時間が読み込まれているのではないか。小説の中でも、性格だとか思考だとか、人物についての非時間的な描写があるわけですが、それもやはり間接的な仕方で、必ずその人が生きて行為していくことと繋がっている。われわれの推論は常にそうふういうに働いていくんじゃないかと思うんですね。ですから、確かに表面的には、時間的というより空間的なイメージがもたらす印象のほうが重要だという部分がある。マンガや映画ではとりわけそうです。それは今日も強調したつもりなんですが、しかしそうした印象を動員しつつ、物語は「動いてゆく」わけで、その意味では時間性こそが根底にあると言うべきだと、そう思うわけです。
質問者3:(キャラクターの図像にはあらかじめ設定とか物語が織り込まれているのではないか? テプフェールもキャラクターに物語を感じるところから始めている。一方で、マンガを読み終わった後には、体験した物語の時間がすべてそこに象徴されるような存在だとも感じられ、結局はやはりキャラクターに回帰してく。それが、映画でも小説でもない、マンガの物語体験の重要な点ではないのか。今回の話の中で、存在が立ち現われるという点に物語経験の核があると言われるのであれば、それこそキャラクターという問題に収まっていくことではないのか? また、言葉と図像の問題について、言語的なものの優位性を森本氏は語っていたが、マンガの図像そのものがひとつの言語ではないのか? 視線誘導のようなものもマンガの言語としての文法なのだと思う。そういうふうに考えたほうが多分良い。キャラ図像というのも、性格や感情などの象徴性と近いところにあって、それがマンガ言語だと思う)
森本:ありがとうございます。納得しながら聞いてました。テプフェールもそうだと思うんですが、ある図像が特定の属性を与えられて使われている。これは、言うならば文法ですよね。言語であれイメージであれ、意味作用を行う媒体には一定のコードがある。そのレヴェルの内容は、学習されたリテラシーを基盤として理解されたり、あるいは表情認知のように、ある程度は生得的なメカニズムで理解できてしまったりする。口角が上がっていれば喜んでるんだみたいな、そういう部分ですね。確かにそういうコードを使って表現が組み立てられてゆくわけですが、問題は、じゃあ、これは悲しい顔だよね、悲しい顔した人物がいるよね、悲しい場面だよね、ってそれで終わっているのかと言えば、そんなことはない。単一イメージとしても、また隣接イメージとの関係においても、常に表現の一回性というものがあって、受け手は瞬間ごとにコード解読を越えた推論を行い、様々な印象を受け取っているはずです。それらが徐々に積み重なることで、受け手の中で人物の存在が出来上がってゆくわけです。先生は今、始まりと終わりの対称性みたいなことをおっしゃったんですけど、私としては、読んでいる瞬間に徐々に存在が立ち現れてくる、このプロセスが経験として重要なんじゃないか、そこにしかマンガは存在しないのではないか、と思うんです。小説でも映画でも同じです。もちろん、表現が表現である限り、文法的・コード的なものは不可欠ですし、それを新たに開発することが表現者には求められているとも言えます。ですから先生がおっしゃられたことそのものには、全く異論はないのです。
質問者4:(以前森本氏が作られた表について、今回の発表ではゲームの項目を抜いてあるのではないか?)
森本:そうです。
質問者4:(森本氏の考えでは、インタラクティヴなゲーム経験は物語経験ではないということだと思う。最近の若い人はマンガを読まずにゲームばかりという面もあり、ある意味では物語経験の機会がどんどん減っているような気がするが、どう考えるか?)
森本:私も全く同じことを感じています。本当に読まなくなりましたね。マンガも読まない、映画も見ない。小説はもちろん読まない。ゲームはやります、という感じになってきました。ゲームにまで議論が及んでいないのは、単に私にそのキャパシティがないからですが、インタラクティヴな表現メディアとしてのゲームを、ちゃんと論じていかなければならないのは確かですね。映像に関しても、今の二次元スクリーンの映像が立体化するとか、ほとんどCGで製作されるようになる。そういったメディアの変化が物語そのものを、また物語経験をどう変えていくのかっていうのは、多分すごく重要な問題です。私はまだ手が出せないでいるので、むしろ、ぜひ若い人に考えていってほしいと思います。
質問者4:私もそこがすごい気になるところです。
森本:そうですね。でも今後ゲームが物語の主流になっていくことは明らかですから、みなさん、がんばって研究してください。(会場笑)
佐々木:では最後に、今日冒頭でキースピーチをしていただいた夏目先生、議論をお聞きになっていかがでしょうか?
夏目:みなさんの発言を聞いていてですね、多分、コメンテーターの四人が言おうとしたことが、「物語」という定義に関して、森本さんの定義から外れていくというところに議論のポイントのひとつがあったような気がしました。でも、これは通俗大衆的なものの中では結構重要なことであると思うのです。つまり、いろんな物語がありますけども、通俗化するとおそらく断片化していく。例えば歌舞伎の役者絵なんか一つみても、そこには全部後ろに話があって、みる人はそれを受け取っている。しかしそのことは、後世忘れられる。また例えば、藤子不二雄が描いた「泥棒」の絵を講義で学生に見せると、誰でも「泥棒」だってわかる。その「泥棒」は、手ぬぐいを鼻の下で結んでかぶり、横シマのセーターを着て、記号的に「泥棒」を表象してる。鼠小僧について、ほとんど知らないくせに、なぜかみんな了解できるという変な現象がある。鼠小僧の記号化された断片の背景にあるものを「物語」と言おうと言うまいといいと思うんですが、そういう現象がある。そこを捉えないと、マンガなどの表現を考える時に難しいんじゃないか。どこで、どう捉えるかっていう問題になりますけれども。僕はだから、一枚の絵でも物語があるっていうのは、感覚的にはすごくよくわかる。だからこそ、我々は何かを見た時に、それを世界として受け取りうるんだ、っていうふうな考え方をするんですね。実は、手塚論をやった時の僕の考え方って、近代小説的な規範を使っちゃったという意味でも、意外と森本さんにすごい近いな、ってことを、今日認識したんです(笑)。そこからなんか、それだとちょっと不自由だな、というところがあって今に至ります。本当はそこをもうちょっと論じていただきたかったというのはありますけれども、今後の課題としたいと思います。
森本:そうですね。
佐々木:では、いずれ来るべき「マンガのナラトロジー2」で(笑)、また、議論を進めたいと思います。ではどうも、ありがとうございました。
(了)