【論考】 19世紀アメリカのマンガ史概略 (三浦知志)

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19世紀アメリカのマンガ史概略
――論考「コミック・ストリップの起源」を参考に

はじめに

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The Yellow Kid (1896.10)

マンガ(コミック)の歴史は、いつどこではじまるのか。この問いにたいするひとつの答えとして、近年の研究者の多くは、それは1827年、スイスの版画家ロドルフ・テプフェール(Rodolphe Töpffer)による「ヴィユ・ボワ氏 M. Vieux Bois」の創作からである、と考えている。理由は主に、この作品が大量の絵(コマ)と言葉からなる物語であったこと、また、おなじ表現形式でつくられた『ジャボ氏の物語 Histoire de M. Jabot』(1833年)が、転写石版の技術によってテプフェールの軽快な線描をそのまま出版することができたこと、などが挙げられる。絵と絵、および絵と言葉のさまざまな組み合わせによって、一ページの画面、ないし複数ページからなる物語の全体を構成し、それらをすばやく大量印刷して本にまとめ世に出す。まさしく「マンガらしい」と思わせる要素である。しばしばマンガの起源のひとつとして参照される18世紀イギリスのウィリアム・ホガース(William Hogarth)の連作版画とくらべた場合、テプフェールの作品を「マンガ」と呼ぶことに抵抗がない人は多いと思われるが、それはテプフェールの線描の自由で気楽なさまによるところが大きい(佐々木果『まんが史の基礎問題』を参照のこと)。
一方、べつのマンガの起源として言及されるものに、アメリカの新聞に掲載された「イエロー・キッド The Yellow Kid」(1895年)がある。リチャード・アウトコールト(Richard Outcault)によるこの連載作品は、大半は一枚絵のものだったが、なかには絵の連続によって物語を提示するものがあり、また登場するキャラクターたちがふきだしで言葉をしゃべっていた。「イエロー・キッド」は爆発的な人気となり、発行部数争いを演じていた新聞各社は、イエロー・キッドのような人気キャラクターをうみだそうとし、おかげで愉快なキャラクターたちがつぎつぎと紙面上に誕生する。連続する絵とふきだしによる物語はこうして、全米、さらには世界中にむけて配信され、テプフェールの時代には考えられないほどの規模で、ひとつの表現ジャンルとして認知された。しかも、人気キャラクターのイエロー・キッドはさまざまな商品の販売促進の道具として用いられ、「キャラクター商品」というものが可能であることをひろく世に知らしめた点でも重要である。
さて、「イエロー・キッド」は「ヴィユ・ボワ氏」から70年近く経過したあとのマンガである。たしかに「イエロー・キッド」にはマンガ史における独自の革新性が認められるとしても、だからといって「イエロー・キッド」をアメリカにおける唯一のマンガの起源とし、「イエロー・キッド」以前のアメリカには「ヴィユ・ボワ氏」のようなマンガはなかった、と考えることはできない。なぜなら1842年、まさに「ヴィユ・ボワ氏」がアメリカに輸入されているからである。しかしながら、輸入された「ヴィユ・ボワ氏」から「イエロー・キッド」誕生までの、アメリカのマンガ史がどのようなものであったかについては、じつはあまり知られていない。デイヴィッド・カンズルの『コミック・ストリップの歴史:19世紀』(David Kunzle, The History of the Comic Strip: The Nineteenth Century)は、現在のところ19世紀のマンガ史について最も詳細に教えてくれる文献であり、テプフェールやドイツのヴィルヘルム・ブッシュ(Wilhelm Busch)のマンガなどこの時代の代表的なマンガだけでなく、オーストリア、イタリア、スペイン、それにロシアといった国々でのマンガにも目配りを怠っていないのだが、この浩瀚な書物には、残念なことにアメリカのマンガが欠けている。
マンガ史におけるふたつの起源のあいだを埋めようという努力は、もちろん個々の研究者によってなされているが、それぞれが断片的であり、この時期の全体をとらえる仕事というものはほとんどないのが実情である。今回紹介する論考「イエロー・キッド以前のアメリカ初期コミック・ストリップの起源」の意義はまさにこの点にあり、19世紀アメリカのマンガ史をテーマに書かれた文章としては、管見の限りでは最も詳細かつ包括的なものといえる。以下、この論考についての概略をとおして、「イエロー・キッド」以前のマンガ史を素描したい。

書誌情報

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The Overstreet Comic Book Price Guide 46th Edition (2016)

これから見ていく論考は、『オーバーストリート・コミック・ブック・プライス・ガイド』第46版に掲載された、ロバート・リー・ビアボーム、リチャード・サミュエル・ウェスト、リチャード・D・オルソン博士の共著「イエロー・キッド以前のアメリカ初期コミック・ストリップの起源」である(Robert Lee Beerbohm, Richard Samuel West & Richard D. Olson, PhD, “Origins of Early American Comic Strips before the Yellow Kid,” in Robert M. Overstreet, The Overstreet Comic Book Price Guide (46th Edition), Gemstone Publishing, Inc., 2016, pp.358-370)。
『オーバーストリート・コミック・ブック・プライス・ガイド』とは、文字通り、ロバート・オーバーストリート氏の編集によるコミック・ブックの価格案内書であるが、新刊コミック・ブックの定価を案内しているわけではなく、アメリカのコミック古書が現在どれほどの相場で売買されているかを示したものである。1970年に創刊、刊行は年に一回で、第46版が2016年7月に出版された。1200ページあまりある大部であり、そのうち750ページ以上に、コミック・ブックのタイトル、号数、価格等が、小さな字でぎっしりと記されている。価格は、古書の状態に応じて、ひとつのタイトルにつき通常6段階で提示されている。たとえば、クリス・ウェアの『アクメ・ノベルティ・ライブラリー』第1号(1993年)の初版は、状態の悪いものから順に、3ドル(GOOD)、6ドル(VERY GOOD)、9ドル(FINE)、14ドル(VERY FINE)、20ドル(VERY FINE / NEAR MINT)、25ドル(NEAR MINT-)となっている。これが「スーパーマン」初登場の『アクション・コミックス』第1号(1938年)となると、17万ドル、34万ドル、51万ドル、120万ドル、200万ドル、280万ドルという破格の値がついている。現在、ほぼ新品の「スーパーマン」初登場号を手に入れたければ、およそ3億円を支払う必要があるのだとわかる。
『プライス・ガイド』の残り450ページ弱のうち大半は古書取扱店の広告だが、その中にまじって、今年の市場の動向や、論考等の寄稿文が掲載されている。「イエロー・キッド以前のアメリカ初期コミック・ストリップの起源」(以下、「コミック・ストリップの起源」と略記)もそのひとつである。この論考は、『プライス・ガイド』第32版(2002年)に初掲載され、以降の『プライス・ガイド』にも、加筆修正を経て掲載されつづけている。

論考におけるアメリカのマンガの歴史区分について

「コミック・ストリップの起源」は、論じる歴史の範囲をおおむね1842年から19世紀いっぱいとし、この時期を「ヴィクトリアン・エイジ The Victorian Age」と呼んでいる。
もちろんこれは、「スーパーマン」「バットマン」等が誕生したゴールデン・エイジ(1930年代後半〜1950年代初頭)や、「フラッシュ」「ファンタスティック・フォー」等のシルバー・エイジ(1950年代半ば〜1970年頃)といった、アメリカにおけるマンガ史区分の慣例を踏襲してのことである(そもそも『プライス・ガイド』はゴールデン・エイジやシルバー・エイジの古書売買のガイドとしてスタートした)。「イエロー・キッド」以後からゴールデン・エイジ到来までの約40年間はプラチナ・エイジと呼ばれているが、論考「コミック・ストリップの起源」はプラチナ・エイジ以前を、ヴィクトリア女王の治世(1837〜1901年)とほぼおなじ時代のマンガを扱うものである。
ヴィクトリアン・エイジのはじまりの目安として1842年が挙げられているのは、前述のように、この年にテプフェール「ヴィユ・ボワ氏」がアメリカに入ってきたからである。とはいえもちろんのこと、1842年以前のアメリカに見るべきものがないわけではない。「コミック・ストリップの起源」が挙げている最古の資料は、1646年の木版画である。

『オウバダイア・オールドバック氏の冒険』

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Brother Jonathan Extra 9号 (1842)

「コミック・ストリップの起源」によれば、「ヴィユ・ボワ氏」が輸入されるよりも前、アメリカにはすでにデイヴィッド・ジョンストン(David Johnston)の『高名なるドン・キホーテと勇敢な従者サンチョ・パンサによる冒険および偉業の図説 Illustrations of the Adventures & Achievements of the Renowned Don Quixote & his Doughty Squire Sancho Panza』(1837年)という、絵の連続の物語があった。『高名なるドン・キホーテ』はブロードサイド(broadside:片面刷りの大判紙)に印刷された12コマの物語で、ボストン、ニューヨーク、フィラデルフィアなどで流通していたようである。書物ではない点、銅版画である点は「ヴィユ・ボワ氏」と異なる。
テプフェールが1827年に生み出した「ヴィユ・ボワ氏」は、その後『ヴィユ・ボワ氏の恋 Les Amours de M. Vieux Bois』というタイトルでジュネーヴで出版されると、パリのオベール商会によって海賊版がつくられる。すると、今度はロンドンのティルト&ボウグ社が、オベール商会の海賊版をもとに、版画家ジョージ・クルックシャンク(George Cruikshank)に委託して『ヴィユ・ボワ氏の恋』の英語バージョンをつくらせる(1841年)。このとき『ヴィユ・ボワ氏の恋』は、タイトルを一新して『オウバダイア・オールドバック氏の冒険 The Adventures of Mr. Obadiah Oldbuck』となる。
そしてこの『オールドバック氏の冒険』は、ニューヨークのウィルソン社が出版していた文芸誌『別冊ブラザー・ジョナサン Brother Jonathan Extra』9号に再録され(1842年)、アメリカでの人気を集める。これこそ、アメリカにおけるテプフェール受容の最初である。
ウィルソン社は他にも、やはりティルト&ボウグ社経由で、テプフェールの『クリプトガム氏の物語 Histoire de M. Cryprogame』(英題「バチェラー・バタフライ Bachelor Butterfly」)を1846年に刊行し、その後もコミック・ブックを刊行しつづけているようだ。「コミック・ストリップの起源」は、コミック・ブックの普及に貢献したアメリカ最初期の出版社として、ウィルソン社の名を記憶にとどめるべきであるとしている。
一方、イギリスでの『オールドバック氏の冒険』刊行に関わったクルックシャンクは、自身も絵による物語の制作にとりかかり、『バチェラーズ・オウン・ブック The Bachelor’s Own Book』(1844年)や『ボトル The Bottle』(1847年)などを刊行する。これらはイギリスでの刊行とほぼ同時期にアメリカにも入ってきており、クルックシャンクはテプフェールと同等の影響力があった人物として見逃せない。

ユーモア週刊誌『パンチ』

テプフェールとクルックシャンクでにぎわっていた1840年代アメリカであるが、マンガ史における大きな出来事がこの時期にもうひとつ起こっている。すなわち、ユーモア雑誌『パンチ Punch』の誕生(1841年)である。12〜16ページのなかに、絵入りの小話や一コマの漫画(カートゥーン)が掲載されたこの週刊誌は、創刊されるとたちまち人気となった。また、ジョン・リーチによる風刺画をとおして、もともとは下絵を意味する言葉 cartoonに「漫画」という意味合いを付与したのも『パンチ』である。
『パンチ』はイギリスの雑誌だが、「コミック・ストリップの起源」によればアメリカでも定期購読者がつくほどの人気であった。同時期にアメリカでも類書が刊行されるが(『ヤンキー・ドゥードル Yankee Doodle』『ジュディ Judy』など)、成功せず短命に終わる。1840年代の雑誌業界は『パンチ』の独壇場だった。
1850年代に入るとアメリカ国産の人気ユーモア雑誌が登場し、月刊誌『ヤンキー・ノーションズ Yankee Notions』は1852年に創刊されると1875年までつづいた。この雑誌で連載された「ジェレミア・オールドポットの冒険 The Adventures of Jeremiah Old-Pot」(1852年)は、アメリカのユーモア雑誌でははじめての、絵の連続と言葉による物語である。作者はわかっていない。
『パンチ』にも絵の連続による物語が掲載されている。最も有名なもののひとつがリチャード・ドイル(Richard Doyle)の「ブラウン、ジョーンズ、ロビンソン」シリーズで、この三人一組の物語がいくつも掲載され、また単行本にもなっている。なかでも1854年にイギリスで出版された『ブラウン、ジョーンズ、ロビンソンの海外旅行 The Foreign Tour of Messrs. Brown, Jones, and Robinson』は、1856年にアメリカのギャレット・ディック&フィッツジェラルド社から刊行され、また1860年にはD・アップルトン社からも出版された。D・アップルトン社はさらに、ドイルがつくったこの三人のキャラクターを用いた、アメリカ独自のコミック・ブック『ブラウン、ジョーンズ、ロビンソンのアメリカ旅行 The American Tour of Messrs. Brown, Jones and Robinson』さえ出版している(1872年)。
ドイルの『海外旅行』は、物語を説明する文章と状況を示す絵との組み合わせが一ページにふたつほど入っているもので、コマの枠線もなく、どちらかといえば挿絵が多めに入った文章という印象である。テプフェールのような、絵が数十コマと連続しているものではないが、当時はドイル式が主流であったようだ。「コミック・ストリップの起源」にはこうある、「わずかな例外をのぞけば、19世紀の漫画家は、十や二十では足りないほどの数のコマをいかにしてつなげ、ひとつの連続する物語を持続させればよいのか、よく理解してはいなかった。ドイルはテプフェールの形式を、たいていのアーティストがまねてみようと思えるようなやり方に、単純化したのだ」。この文章のすぐあとには、アメリカのマンガ史におけるドイルの影響はテプフェール、クルックシャンク、ブッシュにも引けをとらない、とまで書かれている。

フランク・ベルー

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Little Daughter (Frank Bellew ,1861)

「コミック・ストリップの起源」は、1850年代以降活躍するアメリカの漫画家に、フランク・ベルー(Frank Bellew)の名を挙げている。1828年インドに生まれ、フランスとイギリスで教育を受け、1850年にアメリカに渡ってくると、ベルーはさっそく1852年、ニューヨークの週刊誌『ランタン The Lantern』に18コマの「医者を求めるブロッブ氏 Mr. Blobb in Search of a Physician」を6話連載し、直後に16コマの「ブルベアー氏の夢 Mr. Bulbear’s Dream」という、主人公がベッドから落ちて夢からさめるマンガ(まるで半世紀後の「眠りの国のリトル・ニモ」である)を3話掲載する。ベルーはその後も、『ニューヨーク・ピカユーン New York Picayune』、『コミック・マンスリー The Comic Monthly』、『モーマス Momus』、『ファニエスト・オブ・オール The Phunniest of Awl』、『パンチネッロ Punchinello』、『ワイルド・オーツ Wild Oats』など、19世紀中葉に刊行されたユーモア雑誌に、連続コマのマンガや一コマ漫画を数多く掲載する。『ニューヨーク・ピカユーン』と『ファニエスト・オブ・オール』に至っては、ベルー自ら編集に携わっていたようである。
ベルーの活躍ぶりを示す一例として、「コミック・ストリップの起源」は、1859年に創刊された16ページ月刊誌『コミック・マンスリー』の、1860年の内容を列挙している。簡単に引用してみよう。

2月:4コママンガ(署名なし)、12コママンガ(署名なし)、3ページ半にわたる19コママンガ(署名なし)。
4月:16コママンガ(署名なし)、中央見開き12コママンガ(ベルー)、8コママンガ(ベルー)。
5月:7コママンガ(署名なし)、中央見開き24コママンガ(ベルー)、3コママンガ(署名なし)、4コママンガ(ベルー)。
6月:表紙9コママンガ(ベルー)、12コママンガ(署名なし)。
7月:12コママンガ(署名なし)、2コママンガ(ベルー)、10コママンガ(署名なし)、3コママンガ(署名なし)、中央見開き12コママンガ(ベルー)、3コママンガ(署名なし)、裏表紙14コママンガ(署名なし)。
9月:表紙4コママンガ(署名なし)、2コママンガ(ベルー)、中央見開き24コママンガ(J・H・ハワード(J. H. Howard))、3コママンガ(ベルー)。
10月:4コママンガ(ベルー)、2コママンガ(署名なし)、裏表紙18コママンガ(署名なし)。
11月:裏表紙9コママンガ(署名なし)。
12月:中央見開き17コママンガ(不明モノグラムあり)、2コママンガ(ベルー)。

署名のないマンガは、ベルー作のこともあれば、無名のアーティストのこともあり、またヨーロッパからの海賊版ということもあったようである。いずれにせよベルーが中心的な役割を果たしていたことはまちがいない。また、『コミック・マンスリー』には一コマ漫画も掲載されていたが、こちらにもベルーの名前が見られる。同僚にはトーマス・ナスト(Thomas Nast)やA・R・ウォード(A. R. Waud)がいた。

アメリカのユーモア月刊誌

1850年代から70年代にかけて、アメリカのユーモア刊行物は週刊誌よりも月刊誌が成功した時代だった。前述の『ヤンキー・ノーションズ』や『コミック・マンスリー』以外にも注目すべき月刊誌がいくつかある。雑誌には主にフォリオ版(二つ折り版)とクォート版(四つ折り版)があり、『コミック・マンスリー』はフォリオ版、『ヤンキー・ノーションズ』はクォート版だった。
「コミック・ストリップの起源」が「最も偉大なフォリオ版月刊誌」と称するのは、フランク・レスリー(Frank Leslie)が刊行する『バジェット・オブ・ファン Budget of Fun』である。1821年イギリスで生まれたヘンリー・カート(Henry Cart)は版画職人としての訓練を積み、渡米してP・T・バーナム(P. T. Barnum)の『ニューヨーク・イラストレイテッド・ニューズ New York Illustrated News』で数年間働く。かれがフランク・レスリーと名前を変えるのは1850年で、1859年に『バジェット・オブ・ファン』を創刊し、これを1878年までつづけた。この雑誌で最も人気があったのはウィリアム・ニューマン(William Newman)、『パンチ』創刊メンバーである。
『ヤンキー・ノーションズ』に対抗したクォート版月刊誌には、『ニック・ナックス Nick-Nax』、『ファニー・フェロー Phunny Phellow』、『メリーマンズ・マンスリー Merryman’s Monthly』などがあった。『ニック・ナックス』には、トーマス・ナストがそのキャリアの初期において、連続コマのマンガを描いていた。
アメリカにおける連続コマのマンガの父がベルーだとするなら、トーマス・ナストはアメリカの政治漫画の父だ、と「コミック・ストリップの起源」はいう。ナストは『パンチ』よりもギュスターヴ・ドレ(Gustave Doré)の木版画から大きな影響を受け、薄暗い雰囲気を感じさせるナストの漫画が1862年から政治誌『ハーパーズ・ウィークリー Harper’s Weekly』に掲載されると、たちまち人気となり、アメリカのユーモア雑誌もこれに追随して『パンチ』の単なる模倣を脱していく。『ハーパーズ・ウィークリー』はクォート版だが、ナストの漫画は見開きに、フォリオ・サイズで掲載された。この形式は、のちの『パック Puck』や『ジャッジ Judge』などの雑誌で成熟期に入る。

ヴィルヘルム・ブッシュ

1848年の革命の失敗を契機として大量のドイツ系移民が19世紀中葉アメリカにやってくるが、かれらドイツ人たちも、『クラデラダッチュKladderadatsch』や『フリーゲンデ・ブレッター Friegende Blätter』、『ミュンヘナー・ビルダーボーゲン Münchener Bilderbogen』といった絵入りのユーモア刊行物にすでに親しんでいた。ここで注目すべきが、ヴィルヘルム・ブッシュのマンガである。
ヴィルヘルム・ブッシュが英語に翻訳されるのは1860年代で、最初の英訳本と考えられているのはニューヨークで出版された『フライング・ダッチマン The Flying Dutchman, or The Wrath of Herr von Stoppelnoze』(1862年)である。1864年には月刊誌『メリーマンズ・マンスリー』にブッシュの作品が掲載された。また、1868年イギリスでブッシュのアンソロジー『楽しい思いつき A Bushel of Merry Thoughts』が英訳出版されると、これに掲載された作品のいくつかを抜粋し、別の物語(いたずら好きのカラス「ハンス・フッケバイン Hans Huckebein」など)をいくつか追加して、1880年アメリカで『いたずらの本 The Mischief Book』が刊行されている。
ブッシュのマンガで最も有名なキャラクターは、いうまでもなく「マックスとモーリッツ Max und Moritz」(1865年)である。アメリカでは『マックスとモーリス Max and Maurice – A Juvenile History in Seven Tricks』のタイトルで1871年に刊行され、19世紀のうちに少なくとも60回は再版されているようだ。よく知られているように、1897年に『ニューヨーク・ジャーナル New York Journal』紙ではじまるルドルフ・ダークス(Rudolph Dirks)のマンガ「カッツェンジャマー・キッズ Katzenjammer Kids」は『マックスとモーリッツ』を基礎としている。新聞『ニューヨーク・ジャーナル』はニューヨークの移民たちのためにさまざまな言語で出版されていたが、そのドイツ語版に掲載されたダークスのマンガは、タイトルが「カッツェンジャマー・キッズ」ではなく「マックスとモーリッツ」だった。

ユーモア週刊誌『パック』

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Puck (NY, 1977)

1870年代に入ると、ユーモア週刊誌の成功が見られるようになる。まず、1870年にニューヨークで創刊された『ワイルド・オーツ』が重要である。英語だけでなくドイツ語でも出版されたこの雑誌はさまざまな世代の漫画家が参加しており、W・M・エイヴリー(W. M. Avery)、フランク・ビアード(Frank Beard)、フランク・ベルー、E・S・ビスビー(E. S. Bisbee)、マイケル・アンジェロ・ウールフ(Michael Angelo Woolf)、トーマス・ワース(Thomas Worth)などの先達や、リヴィングストン・ホプキンス(Livingston Hopkins)、フレデリック・バー・オッパー(Frederick Burr Opper)、パルマー・コックス(Palmer Cox)、ジェイムズ・A・ウェールズ(James A. Wales)といった新参者が関わっていた。
「コミック・ストリップの起源」によれば、『ワイルド・オーツ』創刊号から25号までについてはなにも情報がないものの、1872年の26号には連続コマのマンガが掲載され、マンガは以後も頻繁にあらわれている。この雑誌のマンガにおいて中心的な役割を果たしたのは主にトーマス・ワースとリヴィングストン・ホプキンスで、10コマ〜20コマのマンガをいくつも描いている。フランク・ベルーは1876年の190号に9コママンガを載せるまで、もっぱら一コマ漫画や表紙の担当であった。
『ワイルド・オーツ』をしのぐ成功を見せたのが、ジョゼフ・ケプラー(Joseph Keppler)の『パック』である。ケプラーはオーストリアに生まれ、ウィーンで画家としての訓練を受けたあと、俳優の仕事を行いつつウィーンのユーモア雑誌『キケリキ Kikeriki』に絵を描いていた。1868年セントルイスにわたると、翌年ドイツ語の週刊誌『フェーメ Die Vehme』を発行し、さらに1871年、やはりドイツ語の『パック』をはじめ、翌年には英語版も刊行された。だが1872年8月、『パック』はドイツ語版・英語版ともに終了してしまう。
ケプラーはニューヨークに移り、フランク・レスリーのもとで仕事をはじめ、自らのカートゥーンを『フランク・レスリー・イラストレイテッド・ニュースペーパー Frank Leslie’s Illustrated Newspaper』や『バジェット・オブ・ファン』などに掲載するようになった。そして1876年、ケプラーは再び『パック』ドイツ語版を創刊した。『パック』は、中央見開きに大きな一コマ漫画を掲載し、また表紙と裏表紙にも一コマ漫画を載せるという点で、当時の雑誌、とりわけ月刊誌の定型を踏襲している。一方、印刷がリトグラフであり、銅版画にはないやわらかな質を生み出していたこと、また、カラー印刷(当初は一色だけだったが)であったことは、それまでのユーモア雑誌にはない特徴である。『パック』英語版は1877年に刊行がはじまった。最初はふるわず、ドイツ語版の利益をあてるなどしてもちこたえていたが、1880年には成功を収めていた。
ケプラーが雇った漫画家には、フレデリック・バー・オッパー、ユージーン・ジマーマン(Eugene Zimmerman)、F・M・ハワース(F. M. Howarth)などがいた。『パック』にはかれらの連続コマののマンガが白黒で掲載されるようになり、1890年代前半になると、主に裏表紙にマンガが載った。F・M・ハワースのコミック・ブック『ファニー・フォークス Funny Folks』(1899年)は、『パック』のマンガを集めたものであり、ヴィクトリアン・エイジとプラチナ・エイジの架け橋となる作品のひとつである。

『ジャッジ』と『ライフ』

「コミック・ストリップの起源」によると、『パック』は、ウィリアム・ハースト(William Hearst)が自身の新聞『ニューヨーク・ジャーナル』の日曜付録をカラー化しようと決意させるほどに影響力のある雑誌だった。この『パック』に対抗したのが、『ジャッジ』および『ライフ Life』という、ふたつの週刊誌である。
『ジャッジ』は、『パック』に寄稿していたジェイムズ・A・ウェールズにより、1881年に創刊された。トーマス・ワースやリヴィングストン・ホプキンスといった漫画家を擁し、また『パック』執筆陣からユージーン・ジマーマンを奪い取ることにも成功した。『パック』を代表する漫画家がオッパーであるのに対し、ジマーマンは『ジャッジ』のスターとなる。
当初、『ジャッジ』の売上げは苦しいものであり、廃刊の瀬戸際まで追い込まれていたようだ。しかし、1884年の大統領選挙の際、民主党に対する『パック』の強力な手助けを目の当たりにした共和党員たちは政治漫画の重要性を理解し、W・J・アーケル(W. J. Arkell)を後押しして『ジャッジ』を買収させた(1886年)。これ以降、『ジャッジ』は共和党の機関誌となる。
『ライフ』は1883年、J・A・ミッチェル(J. A. Mitchell)により創刊された。この雑誌がモデルとしたのはハーバード大学の学生による『ハーバード・ランプーン Harvard Lampoon』(1876年創刊)で、サイズは『パック』や『ジャッジ』よりも小さく、また白黒だった。ただ上流階級に人気があったおかげで、19世紀後半アメリカのユーモア週刊誌業界における第三極となることができた。執筆陣にはE・W・ケンブル(E. W. Kemble)やパルマー・コックスがいたが、とりわけ有名なのは「ギブソン・ガール」のチャールズ・ダナ・ギブソン(Charles Dana Gibson)である。
1873年創刊の新聞『デイリー・グラフィック The Daily Graphic』は、のちにユーモア雑誌で活躍する漫画家(リヴィングストン・ホプキンス、E・W・ケンブル、A・B・フロスト(A. B. Frost)、W・A・ロジャーズ(W. A. Rogers)、オッパー、C・J・テイラー(C. J. Taylor)など)がそのキャリアをはじめる場として機能し、古参のマイケル・ウールフ、フランク・ベルーとともに『デイリー・グラフィック』紙を支えた。『デイリー・グラフィック』はまた、『パンチ』、『ジュディ Judy』、『ファン Fun』といったイギリスのユーモア雑誌に掲載された一コマ漫画や連続コマのマンガを再録してもいた。この『ジュディ』には、マリー・デュヴァル(Marie Duval)の「アリー・スローパー Ally Sloper」(1867年に生まれたキャラクターで、連載マンガの各回にくり返し登場するキャラクターとしては最初期のもの)が掲載されていたが、「コミック・ストリップの起源」によれば、『デイリー・グラフィック』が「アリー・スローパー」を再録した形跡はない。もっとも、「アリー・スローパー」の最初の本が出た1873年の直後、ホプキンスの作風はデュヴァルに近づいたようである。

コミック年鑑

「コミック・ストリップの起源」を読んでみてわかるのは、19世紀アメリカのユーモア雑誌の中心が1870年代を境目として月刊誌から週刊誌へと移り変わっていること(『ヤンキー・ノーションズ』は1875年、『バジェット・オブ・ファン』は1878年、『コミック・マンスリー』は1881年に廃刊する)、また、ユーモア週刊誌で仕事をしていた漫画家のなかにはのちに新聞マンガで活躍する者もいること、である。19世紀末の新聞マンガの誕生を、ユーモア週刊誌がある程度方向づけていた、といえそうだ。
もちろん、19世紀に連続コマのマンガが掲載されていたのは月刊誌と週刊誌だけではない。前述のように、「ヴィユ・ボワ氏」以前のアメリカにはブロードサイド掲載の『高名なるドン・キホーテ』があった。これを制作したデイヴィッド・ジョンストンは、1863年にも『あのジェフが建てた家 The House the Jeff Built』という物語をブロードサイドで刊行している。
もうひとつ、19世紀アメリカのマンガ史を語るうえで外せないメディアとして、「コミック・ストリップの起源」はコミック年鑑(comic almanacs)を挙げている。年鑑とは気象予報や生活の知恵などを記載した年刊本で、ユーモアのある小話などの娯楽も含まれていた。1831年にチャールズ・エルム(Charles Ellm)により刊行された年鑑は、内容すべてがユーモアで、そこにはデイヴィッド・ジョンストンの絵も掲載されていた。最も有名なコミック年鑑は、1835年から1856年までつづく『デイヴィー・クロケット Davy Crockett』シリーズである。
1850年代に入ると、薬品や農業用品の製作会社が年鑑をつくるようになる。これは無料で配布されたが、それは自社製品の広告を読者が読むように期待してのことだった。当初は質の低いものばかりだったようだが、次第に発展し、『バーカーズ・イラストレイテッド年鑑 Barker’s Illustrated Almanac』(1878年創刊)のような良質のものもあらわれた。これは1930年代までつづき、1892年にはこの年鑑の漫画を150ページ分再録した『バーカーズ・コミック・ピクチャー・スーヴェニア Barker’s Komic Picture Souvenir』が刊行された。さらに、商品広告的な年鑑の発達は1870年代に「宣伝コミックス promotional comics」というべきひとつのジャンルをつくりだし、現在に至っている。

アンソロジー

人気漫画家に関しては作品集の刊行も行われており、これも20世紀新聞マンガの方向性に少なからず影響を与えているものと考えられる。1884年に刊行されたA・B・フロスト『スタッフ&ナンセンス Stuff and Nonsense』が最初期のものである。1888年にはオッパーの『パックズ・オッパー・ブック Puck’s Opper Book』があり、その後、ケプラー、ケンブル、ジマーマン、ギブソン、ハワース、マイケル・ウールフといった漫画家のアンソロジーが出ている。フランク・ベルーの息子、「チップ」・ベルー(”Chip” Bellew)のものもある。
1890年代のアンソロジーとして注目すべきものとしては、A・B・フロスト『ブル・カーフ Bull Calf and Other Tales』(1892年)や、ケンブル『ビリー・ゴート The Billy Goat』(1898年)があり、いずれも連続コマのマンガが含まれている。また、スラム街のこどもたちを主題としたマイケル・ウールフの漫画も人気があり、1896年と1899年に再録本が刊行されている。
さて、ここにきてようやく、わたしたちは「イエロー・キッド」との接点を見出すことができる。1881年創刊の週刊誌『トゥルース Truth』(カラー印刷の表紙・裏表紙・中央見開きという形式面では『パック』を模倣しつつ、内容は『ライフ』のような上流階級向けをねらった雑誌)は、スラム街のこどもたちの漫画をウールフに描いてもらおうとしたもののかなわず、かわりに若きリチャード・アウトコールトにその任を託した。『トゥルース』には、のちのイエロー・キッドとおぼしき坊主頭のこどもが1894年に登場している。

パルマー・コックス

「コミック・ストリップの起源」は、ヴィクトリアン・エイジとプラチナ・エイジのあいだにはっきりとした境界線はなく、両者の範囲は重なっているとしている。それはこの論考が、「絵の連続とふきだしとの共存」という表現形式的な特徴とはべつに、「キャラクター商品」という新たなビジネスモデルの創出をも、プラチナ・エイジの特徴と考えているからである。
この点で重要なのがパルマー・コックスである。「コミック・ストリップの起源」の著者であるビアボームとオルソン博士は、じつは『プライス・ガイド』にもうひとつ、プラチナ・エイジについての論考「新聞がマンガの力を利用する」を寄せており、コックスについてはこちらで詳しく説明されている(Robert Lee Beerbohm & Richard D. Olson, PhD, “Newspapers Harness Comics Power Myriad Formats Compete,” in Robert M. Overstreet, The Overstreet Comic Book Price Guide (46th Edition), Gemstone Publishing, Inc., 2016, pp.387-392)。
パルマー・コックスは1840年カナダ・ケベックに生まれ、1863年にカリフォルニアへと移り、そこで1874年に『カリフォルニアの風刺Squibs of California』という挿絵入りの本を出版している。その後1875年にニューヨークへと渡り、『ワイルド・オーツ』で仕事を始める他、こども向けの雑誌『セント・ニコラスThe St. Nicholas』にも寄稿するようになった。コックスはこの頃から妖精のキャラクターを描くようになり、それは1877年の『ハーパーズ・ヤング・ピープル Harper’s Young People』や、1881年の『ワイド・アウェイクWide Awake』といった雑誌にあらわれている。そして1883年、妖精のこどもたちの物語「ブラウニーズ The Brownies」が『セント・ニコラス』誌上に登場した。1887年には最初の「ブラウニーズ」本が刊行されている。
キャラクター商品の観点から決定的だったのは、1893年のシカゴ万博におけるブラウニーズ商品の出展である。ブラウニーズは、ピアノ、人形、いす、ストーブ、パズル、のど飴、コーヒー、石けん、ブーツ、キャンディなどの製品のキャラクターになっており、その後アメリカのみならずヨーロッパでもブラウニーズ商品が販売されることとなった。
1895年2月9日号の『トゥルース』に掲載されたアウトコールトの漫画は、少年が絵筆をもち、べつの少年の顔にブラウニーズのような落書きをしている場面を描いたものである。キャプションには「もしパルマー・コックスがおまえを見たら、すぐにおまえを著作権で保護してもらうだろうよ」という少年の言葉が書かれている。「ブラウニーズ」の成功は、アウトコールトにキャラクターの著作権を意識させていたようだ。アウトコールトはのちに、自らの新聞マンガ「バスター・ブラウン Buster Brown」を靴屋のマスコット・キャラクターにし、コックスをまねてセントルイス万博(1904年)に出品している。

新聞マンガの幕開け

「イエロー・キッド」がはじめて新聞に掲載されたのは1895年のことだが、これは最初のカラー印刷の新聞マンガというわけではない。1892年、シカゴの新聞『インター・オーシャン Inter Ocean』は、週刊の4ページ付録『イラストレイテッド・サプルメント Illustrated Supplement』を導入し、ここにトーマス・ナストやアート・ヤング(Art Young)の漫画を載せたが、この付録はその後、表紙にカラー印刷をほどこすようになり、さらに1893年には、チャールズ・W・ザールバーグ(Charles W. Saalburg)の連続コマのマンガをカラー印刷で掲載した。
『イラストレイテッド・サプルメント』の内容は、その後次第にこども向けとなり、1894年1月に8ページの『インター・オーシャン・ジュニア Inter Ocean Jr』となる。ザールバーグはこれに「ティング・リングス The Ting Lings」というマンガを連載していた。だが同年半ば、ザールバーグがジョゼフ・ピュリッツァー(Joseph Pulitzer)に引き抜かれ、『ニューヨーク・ワールド New York World』日曜付録の編集をまかされるようになると、『インター・オーシャン・ジュニア』はカラー印刷でマンガをふんだんに用いた紙面をやめている。『ワールド』が漫画をカラーで掲載しはじめるのは1893年5月、連続コマのマンガを掲載するのは1894年1月で、アウトコールトのマンガは同年11月に初掲載された。翌年にはじまる「イエロー・キッド」の主人公であるミッキー・デュガン(Mickey Dugan)の外見と、ザールバーグの「ティング・リングス」に描かれるキャラクターとには、明らかな類似が見られる、と論考「新聞がマンガの力を利用する」に書かれている。
その他、1890年代前半の新聞で重要な役割を果たしている『サンフランシスコ・エグザミナー San Francisco Examiner』についても言及しておきたい。これに掲載されたジミー・スウィナートン(Jimmy Swinnerton)のキャラクター「リトル・ベアーズ Little Bears」(1893年)は、毎エピソードにくりかえし登場するキャラクターとしてはアメリカで最初のものである。スウィナートンはその後ニューヨークへ移り、新聞マンガを描きつづける。

おわりに

以上が、論考「コミック・ストリップの起源」(および「新聞がマンガの力を利用する」の一部)の参照をとおして把握できる、19世紀アメリカのマンガ史の大まかな流れである。あらためてまとめるならば、

・1840年代:テプフェール、クルックシャンク、『パンチ』など、ヨーロッパの影響が大きい
・1850年代:リチャード・ドイル『海外旅行』などの人気作がヨーロッパから入ってくる一方、アメリカ国内ではフランク・ベルーが活躍しはじめ、また『ヤンキー・ノーションズ』など国産のユーモア雑誌の成功も見られる
・1860年代:フランク・レスリーの月刊誌『バジェット・オブ・ファン』の成功、トーマス・ナスト登場
・1870年代:ジョゼフ・ケプラーの週刊誌『パック』創刊、ユーモア雑誌の中心が月刊誌から週刊誌へ、ブッシュ『マックスとモーリッツ』の人気
・1880年代:『パック』の人気、『ジャッジ』や『ライフ』の創刊、A・B・フロストやフレデリック・オッパーらのアンソロジー出版、パルマー・コックスのキャラクター「ブラウニーズ」の人気
・1890年代:シカゴの新聞『インター・オーシャン』のマンガ付録開始、ニューヨークの新聞『ワールド』でアウトコールト「イエロー・キッド」の人気

となるだろう。もっとも、文章の煩雑さを避けるためにここでは内容を縮約して説明するにとどめている。原文はもっと詳細な内容なので、興味のある方はぜひ原著を参照してほしい。
19世紀アメリカ、とくに1880年代以降のアメリカのマンガは、日本のマンガ史とけっして無縁ではない。明治23(1890)年以降、福沢諭吉の新聞『時事新報』に掲載された今泉一瓢の「漫画」は、江戸後期の『北斎漫画』とはことなる新しい種類の表現であったが(この時期の「漫画」の意味内容については、宮本大人「「漫画」概念の重層化過程 ―近世から近代における―」を参照のこと。本サイトから入手可能である)、一瓢は『時事新報』で働く直前の五年間をサンフランシスコで暮らしている。もともとは「二三の滑稽画新聞社に見習生として使って貰う」ために渡米したのであり(『一瓢雑話』)、残念ながら行く先々で断られ漫画家になることはできなかったようだが、それでも雑誌やアンソロジーなど、当時のアメリカのマンガに直に触れていたと推測することは許されるだろう。今泉一瓢の後継として『時事新報』の「漫画」を担当した北沢楽天は、のちに『パック』で活躍するフランク・ナンキベル(Frank Nankivell)から西洋の画法を学び、また自身も雑誌『東京パック』を1905年に創刊する。その他、明治21(1888)年には、アメリカでも人気のブッシュの『マックスとモーリッツ』が渋谷新次郎・小柳津要人による日本語訳で刊行されている。
1827年、テプフェールが仲間内で楽しんでいた「ヴィユ・ボワ氏」の表現形式は、19世紀末には極東でも楽しまれるようになった。20世紀に入りこの表現形式がさらに発展を見せることについては、数多くの研究が教えてくれるところである。『プライス・ガイド』によれば、ウィルソン社が1842年に刊行した『オールドバック氏の冒険』は現在、2200ドル(FAIR)、5000ドル(GOOD)、1万ドル(FINE)の高値で取引されている。このような事態をテプフェールは想像もしなかっただろうが、これは、20世紀以降のマンガ市場の広がりとテプフェールに対する敬意とが示された状況であるといってよい。

(三浦知志)

2016.12.5 改訂