宍戸左行は大正から昭和の戦前、戦後にかけて活躍した漫画家である。諷刺画や挿絵など多様な仕事を残したが、現在では手塚治虫以前のストーリー漫画において重要な作品と見なされる「スピード太郎」の作者としてよく知られている。
宍戸は若いころの数年間をアメリカで過ごしており、「スピード太郎」の表現の先進性を、滞米時に体験した当時の映画やマンガに求める論は多数ある。しかし、宍戸の滞米期間は良くわかっておらず、時系列的に見てもそれらの論には疑問点が少なくない。その検証については当M studiesサイト内の資料室に掲載されている論文、佐々木果「ストーリー漫画家としての宍戸左行(PDF)」に詳しく、次のように書かれている。
宍戸左行は青年時代に渡米し、足かけ9年ほどを向こうで過ごしている。この時代にアメリカの新聞漫画や映画などに接したことが、後の作風に影響していると指摘する論者は多い。たとえば須山計一は「作者の宍戸左行は在米生活九年の経験もあり、同地のコミック・ストリップを充分知っているので、そのアメリカ式ナンセンス性、スピード感、スーパーマン性などを映画もどきに、現在の劇画ふうに組立てて展開した」と述べる。竹内オサムは『子どもマンガの巨人たち』の中で、宍戸の滞米中の映画体験などに注目すると同時に、新聞漫画の影響を指摘する。「当時アメリカで流行していたコマ漫画(コミック・ストリップ)からの刺激も、その画面を斬新なものにしたてあげていた。」「宍戸が渡米していた大正末から昭和初期にかけては、アメリカでは新聞を中心にしたコミックの全盛時代であった。「スピード太郎」には、当時の時代の機運が、直接に反映されている。」宍戸左行の作風に滞米経験が何らかの形で影響しているのは、おそらく間違いがないだろう。ではその時代のアメリカで宍戸が接した作品とは、具体的にどのようなものだったのだろうか。宍戸は著書『漫画漫談アメリカの横ッ腹』(平凡社、1929)でアメリカの漫画界のことを記しているが、そこで挙げられている作品は、この本の刊行時までに日本で翻訳されているものばかりで、在留当時に読んでいた作品についての直接的な記述はあまりない。
宍戸の帰国時期が問題になるのは、帰国した時期により米国で接していたマンガや映画が大きく異なるからだ。例えば映画史においてその表現の先進性が指摘されるD・W・グリフィス(David Wark Griffith)の『国民の創生』(The Birth of a Nation)は、米国での公開は1915 年公開だが、日本での公開は1924 年であり、かなりの時間差が生じている。いわゆる「映画的な手法」の影響を考えた場合、滞在期間が長い方がこれらの技法を用いた作品を見ている可能性が高いと考えられる。ちなみに、『ターザン(Tarzan)』(1929) や『バック・ロジャーズ( Buck Rogers in the 25th Century AD)』(1929) と言ったアクションストリップと呼ばれる、活劇性の高い新聞連載漫画が登場するのは宍戸の帰国後であり、これらを米国で目にしていた可能性は無い。
佐々木は宍戸が米国で内村鑑三の弟内村順也と共同生活をしていたことに着目し、滞米期間を次のように推定している。
井上琢智によれば、内村が渡米したのは明治41(1908)年4月である。そこから逆算するならば、先行する宍戸の渡米は明治40(1907)年後半~明治41(1908)年春までである可能性が高い。明治41(1908)年2月には日米紳士協定が結ばれ、以後は就労目的での渡米は困難になるため、宍戸の渡米がこれ以降ということは考えにくい。ここから宍戸三沙子のいう「八年間」「足かけ九年」であるならば、帰国は大正4(1915)~ 5(1916)年頃ということになる。
そして、宍戸の名前が公に登場した最も早い仕事として博文館の雑誌『ポケット』創刊号(大正7(1918)年8月発売)を挙げている。今回、より古く具体的に推定できる資料が発見された事で、滞米期間と帰国後の仕事がかなり絞り込めるようになった。
その資料とは大正6(1917)年に創刊された雑誌『漫画』(漫画社)※1である。
『漫画』は諷刺画やコマ漫画、読み物などを掲載した、色刷り30頁前後の冊子で、創刊は大正6年1月。現存が確認されているのは1巻10号(大正6年10月発行)までである。巻頭には本誌執筆画家として漫画家たちの名前が列挙してあるが、大半が前年の大正5(1916)年に設立された漫画家団体「東京漫画会」の同人たちであり、編集兼発行も同会の本間国雄となっている事から、東京漫画会が母体となって発刊された雑誌だと考えられる。
『漫画』は創刊号から読者の漫画投稿を募集しており、1巻5号あたりから応募作品が掲載されはじめるが、1巻7号(大正6年7月発行)に「ハム公とチビ」という作品が掲載される。
同号の当選した応募マンガの寸評「當選漫畫披露」欄には次のように紹介されている。
右の内古川君の「ハム公とチビ」は募集規定に違反し居れど近来最も優秀なる作品なれば特に掲載することとせり。
そして次の1巻8号(大正6年8月発行)の「漫畫當選披露(原文ママ)」欄には次のような訂正文が掲載された。
正誤 前號のハムとチビの作者古川藻吉君としたのは本郷元町二ノ六六第一淸輝館方宍戸左行君の誤である。※2
これにより、1 巻7 号に掲載された「ハム公とチビ」は宍戸の作品であったことが分かる。それ以前の宍戸の投稿漫画は確認出来ていないが、前号の募集規定に違反しているとの記述※3から、あまり投稿経験が無く、これが初投稿もしくは初当選であった可能性が高い。また、1巻8号の読者投稿欄には「ハム公とチビ」の作者について、読者からの質問も掲載されている。
▲ハム公とチビは大變面白いものでした、少し活働のフイルム臭い處はありますがー 一体あれは何誰ですか(赤坂漫畫狂)
◎あれは応募もので昨年亜米利加から帰られた宍戸君です本社でもあの人の作物には期待を持って居ます。
宍戸が昨年( 大正5(1916) 年) に帰国したとの情報が書かれている事から、すでに漫画社の同人たちと何らかのコンタクトをとっていたようだ。前号の記載が間違っていたため直談判に行ったのかもしれない。そのためか、同号にはハム公とチビの続編「冷蔵庫のチビハム」が掲載されているが、漫畫當選披露欄に宍戸の名前は無く、すでに応募作扱いでは無くなっている。
この作品でもう一つ注目すべきは、前号の作品には無かったS. SHISHITO のサインが書き込まれている点である。従来、宍戸の苗字は「ししど」と読み仮名が振られてきたが、本来の読みは「ししと」だった可能性がある。※4
帰国時期を推定するもう一つの資料として、雑誌『日本一 6巻4號』(大正9年4月発行)の漫画特集号に宍戸自らが書いた、自叙伝「滞米十年脱糞修行」がある。その中に滞米期間についての記述は無いのだが、帰国後について次のように書かれている。
帰國後は賣らない繪を描いて居る隙は殆どない位、大部は賣るために寸法に嵌めて描く繪の方に努力しつつ早くも四ヶ年の東京生活を續けたが
売るために寸法に嵌めて描く絵とは、新聞・雑誌などの漫画や挿絵の仕事だろう。帰国後から四ヶ年の東京生活を、雑誌が刊行された大正9年から逆算すると大正5年となり、やはり帰国したのは大正5年だった可能性が高い。
ちなみに、「ハム公とチビ」は米国の喜劇俳優ロイド・V・ハミルトン(Lloyd V. Hamilton 1891年8月19日- 1935年1月19日)とバド・ダンカン(Bud Duncan 1883年10月31日- 1960年11月25日)による映画「Ham and Bud」シリーズの登場人物にキャラクター造形が似通っており(https://www.youtube.com/watch?v=ss3Yv5IGIvw)、そこから着想を得たものだと思われる。宍戸がこの作品を滞米時に鑑賞していたのかは不明だが、同シリーズは日本でも「ハムとチビ」といったタイトルで大正5~6年ごろ数多く公開されており、タイトルの付け方から日本でも鑑賞していたのは間違いない。※5
宍戸の作品掲載は以後も続き1巻9号(大正6年9月発行)には、「ハムとチビの時計」の他に、諷刺画「癒る藥を送ってお呉れ」、「活動寫眞界刻下の急備」、その他無題1作品と多数の作品を寄稿するようになっている。「ハムとチビ」にはS.SHISHITO 1917のサイン、他の3作では昭和の初めごろまで使われる四角に左のサインが使用されている。
3作の諷刺画はそれぞれ画風を変えて描き、無題の作品では写実的な画風を用いるなど、漫画家として技量の多彩さが見てとれる。
そして、同号の漫畫當選披露欄には「宍戸佐行君(原文ママ)右本社々友に推薦す。」との一文まで掲載され、漫画社、東京漫画会の面子と強いつながりが出来ていたのが伺える。宍戸は同年9月三越にて開催された東京漫画会の第二回漫画展覧会にも作品を出品している。※6
『漫画』は1巻10号(大正6年10月発行)に紙面のリニューアルを図る。巻頭の本紙執筆画家が目次に変わり、そこには「宍戸佐行(原文ママ)」の名も掲載されている。作品も引き続き寄稿しており、諷刺画「臨時教育會議の一醫員」(SSHISHITOのサイン)、コマ漫画「漫畫小説 家蔵呑亭君の此頃」(四角に左のサイン)、ハムとチビのシリーズ「時評漫畫 藝術に生きよ」(四角に左 1917のサイン)と3つの作品が掲載されている。
特筆すべきはその扱いの大きさで、「漫畫小説 家蔵呑亭君の此頃」は見開き2ページ丸々使っての掲載、「時評漫畫 藝術に生きよ」は見開き2/3の掲載スペースと、数か月前に応募者だったとは思えないほどのページが割り当てられている。『漫画』の制作者たちは宍戸に大きな期待を寄せていたいようだ。
しかし、以降の『漫画』は今のところ確認されていない。この時期は『東京パック』(有楽社)や『大阪滑稽新聞(※滑稽新聞の後継誌)』(滑稽新聞社)が休刊したりと、日露戦争後に起こった漫画雑誌刊行ブームの終焉期にあたる。同時期に同じく漫画家たちが刊行した『トバエ』(トバエ社)も短命に終わっているため、継続していたとしても長くは続かなかったと考えられる。
『漫画』の終刊後の宍戸は、大正7(1918)年3月発売の『少女画報 7巻3号』(東京社)や、同年5月発売の『少女世界 13巻5号』(博文館)に作品が掲載されており、それほど時間をおかずに漫画家として本格的に活動を始めている。『少女画報』には細木原青起、博文館の雑誌には清水勘一(対岳坊)など、東京漫画会の同人たちが執筆している事から、彼らとの繋がりで仕事を得たのかもしれない。宍戸はその後、東京漫画会が開催していた漫画祭にも出席するようになり、漫画家仲間との関係性を一層深め、漫画家としての地位を築いてゆく。※7
以上のように、宍戸左行は今まで考えられていたよりも早い時期に帰国しており、15 年近く後に描かれた『スピード太郎』の作風と滞米体験を結びつけるのは無理があるように思う。しかし、応募作が映画を題材にとったものであることから、そのキャリアの最初期から映画への関連が高かったのは間違いなく、また漫画に関してもその後勤める新聞社( 東京日日新聞、読売新聞等) には世界各国の新聞が取り寄せられていたので、そこから米国の新聞漫画付録などを読むのに10 年近い遊学経験で培った英語のスキルが役に立ったのは間違いないだろう。今後これらを踏まえた更なる研究がなされる事を期待したい。
資料協力:京都国際マンガミュージアム/京都精華大学国マンガ研究センター
『漫画』資料画像撮影:鈴木麻記
(新美ぬゑ)
注
1 『漫画』という誌名の雑誌は戦前に少なくとも3回創刊されている。今回取り上げている東京漫画会の同人たちが母体となって大正6年に創刊された『漫画』(漫画社)。下川凹天を主筆として日本漫画家連盟が母体となって大正15年に創刊された『漫画』(北斗荘/漫画社) 。戦時中、漫画家団体を統合して出来た新日本漫画家協会の機関誌として昭和15年に新創刊された『漫画』(漫画社)。何れも発行は漫画社となっているが、関連性は無いと考えられる。
2 (本郷区)本郷元町二ノ六六は、現在の本郷給水所公苑(文京区本郷2丁目)付近。
3 『漫画』の投稿既定は「題(毎号変えていたが途中から随意になる)、寸法(縦四寸五分横ニ寸五分)、色は黒、緑、黄の三色」というもの。縦四寸五分横ニ寸五分は13.5×7.5cm程度でハガキに描いて投稿することを想定したサイズとなっている。
4 宍戸左行の本名は宍戸嘉兵衛であり、苗字の読みはそのまま使っていたと考えられる。
5 『キネマ旬報別冊 日本映画作品大鑑2』(キネマ旬報社)によると、大正6(1917)年に日本で公開された「ハム」とタイトルに付くロイド・ハミルトン主演の映画は『ハムの受附』(1月13日帝国館封切)など15作品以上にのぼる。
6 東京朝日新聞1917年9月16日朝刊七面掲載の「第二回漫畫展覧會」というレポート記事に「砂おはき(宍戸左行)は紳士が電車から落ちた圖」との記述がある。
7 宍戸の漫画祭への参加は、大正9(1920)年7月末~8月初頭にかけて開催された新潟越後温泉への特別漫画祭から。