【書評】森田直子『「ストーリー漫画の父」テプフェール 笑いと物語を運ぶメディアの原点』(岩下朋世)

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morita_toepffer森田直子『「ストーリー漫画の父」テプフェール 笑いと物語を運ぶメディアの原点』(萌書房、2019)は、19世紀前半のスイスはジュネーブを生きた教育者であり、文筆家であり、そして、コマを並べて物語る形式としての「ストーリー漫画」の発明者として評価されるロドルフ・テプフェールについての、日本語で書かれたものとしては初の本格的な評伝であり、研究書である。
マンガに対する関心からこの一冊を手に取る読者であれば、ロドルフ・テプフェールに冠せられた「ストーリー漫画の父」という文句を目にした時に、日本における「マンガの神様」のことを思い起こすかもしれない。
そして、そのような連想から、テプフェールの生きた環境や歴史的な状況を、手塚治虫や日本マンガの歴史と、いろいろな意味で重ね合わせてみたくなる者もあるかもしれない。実際、筆者もテプフェールが自身の考える「版画文学」について論じた理論的著作である「観相学試論」(1845)について初めて知った際には、観相学の知見をキャラクター表現の方法として応用し描かれたいくつもの顔を見て、手塚治虫『マンガの描き方』の中にある、目、鼻、口といった顔を構成する要素のバリエーションと、それらの組み合わせによって描かれるいくつもの表情を想起したし、手塚を参照し、キャラクターの身体を一種の記号としてマンガ表現を捉えようとする大塚英志の一連の議論との接点を、そこに見出したものである。
テプフェールの仕事を、そのように「日本のマンガ」に引き寄せて考えてしまうことには、当然ながら慎重さが求められる。とはいえ、一方で本書は日本におけるマンガ研究の蓄積と現在の動向を踏まえて書かれている。そもそも「ストーリー漫画」という言葉についての慎重な扱い自体が、日本語における「漫画」が、コマを用いた物語メディアばかりでなく、カートゥーンまで含むものであり、その範疇が歴史的に変遷してきたことを踏まえているからこそのものだと言えるだろう※1
そこで、この書評では本書について、今日の日本でのマンガ研究・批評の文脈との接点、いまのマンガついて考えるうえで本書がどのような示唆を与えてくれるのか、という点に着目しながら紹介することとしたい。論点は多岐に渡るのだが、ここでは、キャラクター論との接点として、とりわけ「顔としぐさのメディア」と題された第3章をとりあげることとする。その他の章については、ぜひ本書をひもといて確かめてもらいたい。以下、いくつかのポイントについて述べていく。

今日、テプフェールが「ストーリー漫画の父」としてマンガ史における画期として評価されるのは、彼が実作者として先駆的な作品を生み出したからというだけではない。当時のスイスにおける一流の知識人でもあったテプフェールは自らの芸術形式についての理論的な著作も複数発表している。中心的な論文としては、先述した「観相学試論」があるわけだが、同論文も含め、そのいくつかはティエリ・グルンステンとブノワ・ペーターズによるテプフェール論をおさめた『テプフェール マンガの発明』(法政大学出版局、2014)に収録されている。同書に収められたテプフェール自身のテクストを訳出しているのは、本書の著者・森田である。
「テプフェールの絵物語を構成する絵のスタイル、とりわけ人物の描き方を検討」する第3章では、この「観相学試論」をはじめとした理論的著作の内容が詳論されている。森田はテプフェールにとって「絵物語とは基本的に顔をたくさん描くことによって構成するもの」であったと指摘し、「顔の絵は、作者にとっては表現の単位、読者にとっては『読み取り』の単位であり、言わば『文字』のような役割を持つものだった」とする。
先に手塚の著作やそれを受けた大塚の議論との接点について指摘したが、キャラクターの顔を表現上の単位とみなすテプフェールの立場は、伊藤剛が『テヅカ・イズ・デッド』(NTT出版、2005)で提起した「キャラ/キャラクター」概念を想起させる。2000年代にマンガを含めたサブカルチャー批評や研究においてキャラクターをめぐる議論は、現代日本の文化・社会状況を説明するものとして、しばしば「ポストモダン」という言葉と結びつけながら展開されてきた。伊藤および彼の著作にも影響を及ぼした東浩紀の仕事などがその代表的なものと言えるだろう。19世紀ヨーロッパでの観相学の受容をめぐる状況やカリカチュア概念の変遷を踏まえた、本書におけるテプフェールのキャラクター表現理論に関する整理は、ともすれば日本のサブカルチャー、より限定的に言えば「オタク文化」に特有のものとして「キャラクター」を位置付けるきらいのあった従来の議論を相対化し、キャラクター表現の成立を視覚文化史において捉えるものとなっている。やはり観相学をキーワードとしつつ、美術史研究のアプローチでキャラクター表現の成立について論じた著作として、松下哲也『ヘンリー・フューズリの画法-物語とキャラクター表現の革新』がある。『ミッキーの書式 戦後まんがの戦時下起源』(角川書店、2013)といった大塚英志の近年の仕事も含め、マンガをはじめとしたサブカルチャーに限定せず、広く視覚文化史のなかでキャラクター表現の成立を跡付けようとする方向性は、近年のキャラクター論の動向として注目すべき点であり、本書もまたそうした流れの中での最新の成果に数えられるだろう。
また、「典型人物」や「永続的記号」「非永続的記号」といった概念や、描線が生み出す表情などに関するテプフェールの理論的考察についても、森田もテプフェールの語る顔の認識のあり方が「現代日本で図像的「キャラクター」が認知されるしくみ」と似通っていることに注意を促しているように、視覚的な物語メディアにおけるキャラクター表現について考える上で示唆に富むものとなっている。森田によれば、永続的記号は「顔の恒常的な特徴」に関わるものであり、非永続的記号は「一時的な情念の表出」に関わるものなのだが、見過ごせないのは、テプフェールがキャラクターの描写において重視していたのは、「非永続的記号」の方であったと指摘されている点である。キャラクターは繰り返し描かれる中で多様に描き分けられるものであり、それぞれの顔は、描線によって生み出される独自の表情を持っている。キャラクター表現はしばしばステレオタイプ的な描写と結びつけられてきたが、非永続的記号を重視するテプフェールの考察から見えてくるのは、繰り返し描かれるいくつもの顔によって立ち上がるキャラクターは、様々な解釈や変容に開かれた動的なものであるということである。
一人のキャラクターが複数の顔によって描かれることの持つに意味については拙著『少女マンガの表現機構』(NTT出版、2013)でも論じられている他、さやわか『キャラの思考法 現代文化論のアップグレード』(青土社、2015)でも、従来、静的なものとして捉えられがちであった「キャラ」について、動的に生成・活動するものであることを指摘している。そして、本書において検討されるテプフェールの理論は、まさに動的なものとしてキャラクター表現を捉えるものである。本書は、テプフェールを論じることで、キャラクター表現の歴史を描写するだけでなく、その現在について考える上でも有益な視点を与えてくれるものなのだ。

そして、本書を評する上できわめて重要なことについて、最後に述べておきたい。それは、本書では、キャラクター表現についてこれを社会史・文化史的に成立を跡付ける作業と理論的な検討がいずれも、作品の仔細な分析を伴いながら展開されていることである。第3章においては、「観相学試論」といった理論的著作に関する検討に先立って、『ジャボ氏』『クレパン氏』といったテプフェールの諸作を読解し、反復的な登場、その表情や仕草の描き分けが、キャラクターを魅力的かつ多面的に描き出す上でどのように貢献しているかを明晰に論じている。とくに、女性キャラクターに関する分析は、顔を繰り返し描くことを通じてキャラクターに立体的な存在感を与えていくテプフェールの手つきの繊細さを知る上で、非常にわかりやすいものとなっている。本稿では第3章にしぼって紹介したが、丹念な作品の読解を足場に議論が進められるのは本書の全体において言えることだ。
その「ストーリー漫画」が持つ面白さをつかみとることが、テプフェールを理解する上でのなによりも効果的な手がかりとなっている。本書がテプフェールへの入り口として優れているのは、第一にその点にあるのだと思う。

(岩下朋世)

1 小田切博は本書の書評において、「漫画(マンガ)」という言葉の扱いの難しさがもたらす問題点について指摘している。(https://comicstreet.net/article/father-of-story-manga-topffer/