これは、2015年11月14日に開催されたマンガ研究フォーラム「マンガのナラトロジー ―マンガ研究における〈物語論(ナラトロジー)〉の意義と可能性」の後半のやりとりの採録データ(全3回)の第2回です。他の関連ファイルは、特集ページからご覧下さい。
三浦氏のコメント――一枚絵への自己同期
三浦:はい、三浦です。いつもは東北大あたりでうろうろしているので、物理的には一番、森本先生が普段いらっしゃる場所に近いということで…だから、森本先生のことをより深く知っているとかいうわけではないですが(笑)あの、話し方をお聞きになってわかるように、大変優しい方ですので、みなさん自由にコメントを、森本先生にかけあっていただければ、と思います。優しく接してくれるはずだと思いますので(笑)。それはともかく、発表の内容ですが、もちろん大変面白く聞かせていただきました。マンガのナラトロジーの発表ということですが、マンガのみならず、様々なメディアについて足場となるような、原理的な理論というものを提示していただいて、大変勉強になったなあ、と思っています。二つ感想なんですけれど、たしか、ロラン・バルトが…中田さんや野田さんのいる前でフランス系のことを言うのはちょっと怖いですけど、物語の構造分析を行う、その前段階、お断りという形で、物語の構造分析がいかに客観的に見えようとも、それは、意味を読み解く機械になることはなくて、結局は個人の現象学的な読みに基づくしかない、と。研究チームみたいなことはありえないんだ、ということを確か言っていたと思うんですね。どうしたって主観性が混じってくると。で、森本先生の今回の発表では、自らがもつその主観的なありかたそのものを、理論に組み込もうとしている、というところに感銘を受けました 。
ちょっとまとまりきれているかわかりませんが、物語のことを原理的に考えている理論ですので、「果たしてこれは物語と言えるのかどうか」というような微妙な事例を考えるための足場にさえ、なるような気がしたんですね。というのは、私が今念頭に置いているのはですね、私普段は19世紀末のアメリカのマンガを研究の対象に据えることが多くてですね、そのなかに『イエロー・キッド』というマンガがあります。『イエロー・キッド』というのは、マンガの歴史のことを少し勉強した方なら一回くらいは見たことがあるかなとは思いますが、多くの場合、『イエロー・キッド』の作品は、コマが複数あるわけではなくて、一枚の絵でできています。今日の森本先生の発表では、マンガのことを語る上でですね、コマが複数ある、フレームがあるにせよないにせよ、独立したとみなされる絵が複数ある、ということを前提にお話されていたかと思うのですが、『イエロー・キッド』の場合はそれに該当しない作品が数多くある、ということなんですね。なので、『イエロー・キッド』は果たして物語と言えるのかどうかというのは、個人的な関心事として、一つありました。で、『イエロー・キッド』は一枚絵なんですけれども、もちろん、『イエロー・キッド』に対して自己同期することは可能なんですね。自己同期は、物語経験の重要な契機という話でしたが、物語に限らず、自己同期はできる、というふうに私は理解しました。ということは、『イエロー・キッド』に対しても自己同期はできる。なので、自己同期はできつつ、今目の前にあるイエロー・キッド、それを物語と呼びづらいのはなんでか、というのを考えた時に、まずこの点についてなんですけれど、自己同期をすることはできる、ということは、もし、今見ている対象が物語であるなら、(森本先生の)お話でいうと、N1/N2・P1/P2の態勢を取ることが可能かもしれない。しかし、おそらく、『イエロー・キッド』はP2を大幅に欠いているんじゃないか、っていうふうに思ったんですね。ちょっと自分でもなにを言っているかわからないんですけど(笑)。少し戻りますね。一枚の絵に対して、自己同期をしてそこで物語を読み取るということはできるのかどうか、ということをとりあえずお聞きしたいなと思います。
森本:とても面白い問題ですね。『イエロー・キッド』は三浦さんから何枚か見せていただいたことがありますけど、一枚絵であってもその中にパーツがいくつも含まれていて、そこから物語が想像出来るケースはあると思います。そうではなくて、純粋に一つのまとまりでしかないような絵を物語的に読めるかということなんですけれど、受け手主体の観点から言えば、要は受け手が想像的に補完するかどうかの問題です。その絵の前後にあるものを補って「あ、これはこういう物語の一シーンだな」というふうに理解する可能性はあると思うんですね。それを可能にする前提は、慣習的なものや学習してきたものでもいいし、純粋に個人的な妄想でもいいんですけど。ただそれが、いわゆるストーリーマンガのコマと同じかと問われると、ちょっと簡単には答えられないなという気はします。例えばドラクロワの「自由の女神」の絵っていうのがありますが、あれを見ている時に、見ている人はその瞬間だけ見ているわけじゃなくて、その前後に起きたフランス革命のドラマを想像しているはずです。当然背景知識は必要だし、誰もが同じ見方をするわけではありませんが、いずれにしても人間っていうのは妄想する動物、推論する動物ですから、現に見えている以上のものを解釈してしまうと思うんです。だから、物理的には一枚絵であったとしても、その背後に何を読み取っていくかによって、物語的に受容されることだってありうるのではないかと思います。
三浦:おっしゃるように、『イエロー・キッド』は実際にはただの一枚の絵ではなくて、付随する説明文がけっこうあったりする場合もあり、あるいは、文字がなくとも、例えば動線によって動きが示されるとか、何らかの時間性は描かれているような気がしますので…おっしゃるとおり。で、私自身の経験からすると、『イエロー・キッド』を読む時の感覚と、複数コマがあるようなマンガを読む時の感覚とでは、やっぱり何か違うということで、それは、その補完の仕方の違いということになる、ということかな、と今思いました。ありがとうございます。
三輪氏のコメント――メディアの固有性と物語
佐々木:それでは、次に三輪さんお願いします。
三輪:三輪です、よろしくお願いします。私はもともと「マンガと映画の比較研究」というテーマでマンガを研究してきたのですが、そういう自分自身の興味関心にもとづいて、今日の森本さんのお話に対する感想と質問を投げさせていただければと思います。また、森本さんがこれまでに発表されてきた論文についてもあわせて言及させてもらえればと思っています。それから、はじめに言い訳のようになってしまいますが、恥ずかしながら私自身はナラトロジー(物語論)の伝統的な議論については不勉強なもので、用語法など不適切な言い回しがあったら申し訳ありません。
さて、今日のシンポジウムでは、最初に夏目先生から導入のお話がありました。表現論的なアプローチを開拓していった際に、物語というものを一旦棚上げした。表現論では、もっぱら目に見えるもの(たとえば「記号」)を扱い、「物語」という目に見えないものはひとまず後回しにした、ということです。
では、なぜ表現論的な言説はそのような形で進んできたのでしょうか。一つにはやはり、「メディアの特性」という問題が意識されていたからだと思います。つまり、表現論的なマンガ論というのは、マンガ独自のものを考える中で進展してきた、あるいはむしろ、それを考えることが目的の一つになっていたように思われるのです。だとすれば、メディアの特性、メディアの固有性を明らかにしようという狙いにとって、他のジャンル――つまり映画や小説や演劇――とも共通する要素である「物語」を分析のテーマに据えることは、目標と齟齬を来すように見える、少なくとも見かけ上はそう見えるということになると思うんです。
しかし逆にいえば、そのように捉えられた「物語」というのは、個々のジャンルからある種抽象化された概念、抽出された概念にすぎないわけですね。たとえば、「いま上映中の実写映画版の『バクマン。』と、原作のマンガ版『バクマン。』は、「物語」としては同じだ」といった言い方をするときの「物語」ですね。この「物語」は、今日の発表での言葉遣いでいえば、「あら筋」と呼ばれていたものに該当するかと思います。森本さんのレジュメによれば、「物語」つまり「筋」の経験というのは、「作品全体を俯瞰した時に概観として見出されるストーリー(=あら筋)とは区別」される、というわけです。これまでの表現論的な議論、メディアの特性を考えようとする議論の中で棚上げされてきた「物語」というのは、この「あら筋」のことであって、森本さんの発表で展開されていた「物語」というのはもう少し別の次元にある概念として捉えなければなりません。
また森本さんの発表では、物語一般、物語を経験するということ一般についての問題が論じられると同時に、最後の第四章で、映画とマンガを具体的に取り上げ、それぞれのメディアで物語経験がどう表れているか、という問題に言及されていました。つまりここでは、「メディアの固有性」をめぐる問いが、「何が」語られているかという「あら筋」の次元ではなく、「いかに」語られているか、物語はいかに語られうるかという次元に設定されているといえるでしょう。そのように一般化して考えてみるなら、森本さんが「物語」を扱う際の発想と、マンガ論における表現論のアプローチというのは、実は齟齬を来すものではない、矛盾しないものだと思います。
さて、メディアの固有性はあくまでも「いかに」のレベルで探られるものだとすると、では物語一般の目的、物語経験一般が「何を」目指しているかについて、どう考えるべきでしょうか。森本さんの発表に即して考えていきたいと思いますが、先ほど野田さんが「語り手」や「自己同期」をキーワードとして挙げられていたように、私なりに森本さんの議論のキーワードを挙げるなら、まずは「再現」――とりわけ「ミメーシスとしての再現」――と、それから「知覚」と「人物」、「現実」あたりではないかと思います。要するに、森本さんの議論では、ミメーシスとしての再現、ミメーシスとしてのリアリティを物語はいかに実現するかという問題がまずは大きくあって、それ自体はジャンルを問わず物語一般が共通して目指すべきもの、物語一般の本来的なあり方として前提されているのですね。
では、それぞれのメディアは、そうした物語一般の共通の目的をいかに実現、達成するのか。問題がここに及んだところで、最後に触れられていたようなメディア間の比較検討が課題になってきます。そこで鍵になっていたのは、「制約」あるいは「欠如」の概念でした。つまり、個々の物語メディアには、それぞれ何らかの知覚の制約、知覚の欠如があるという考えですね。「知覚の」と理解して大丈夫でしょうか?
森本:いいです。
物語経験における「人物」の優位性をめぐって
三輪:では続けさせていただきますが、ここで私が引き合いに出してみたくなるのは、「映画」の場合はどうだっただろうか、ということです。かつての映画理論も、マンガの表現論に数十年先立って、映画という自らのメディアの固有性を主張する必要がありました。この点は私の本でもすでに述べたことですが、映画理論の場合、メディアの固有性を主張する際に、二つの角度をつける必要がありました。一つは、先行する他の芸術、とりわけ演劇との違いです。演劇に対して、映画はこのような固有性を持っている、特性を持っている、と主張する必要があった。もう一つは、現実との差異です。つまり、映画というのは単なる写真による現実の複製じゃないか、という非難に対して、いや単なる現実の複製ではない、独自の芸術的な特性を持っているんだ、と主張する必要があった。つまり、他の芸術とも、そして現実とも違うという、二つの角度から映画理論は自らの固有性を主張する必要があったんですね。
このことを踏まえた上で、先ほどの「知覚」という概念に戻りますが、森本さんの議論の中では、フッサール、ハイデガーなどの現象学的な知覚というのが基本的な前提になっているかと思います。要するに、世界内存在としての存在者を、実存として再現するのが物語の目的である、というわけですね。そしてその「実存」というのは、「現実性」などの概念とも結びつけられている。そのような前提のもとで、それぞれのメディアにはそれぞれに欠如があり、ゆえに別ものなのだが、ではそれぞれの特性はどのようなものだろうか、というのが今日の発表の最後の論点でした。
私はそのお話を聞きながら、そこで「現実」、「現実性の知覚」とされているものと、メディア、つまり何らかの媒体を通した「再現的な知覚」というのが、対比的に、あるいは対立的に言及されていたように感じました。そこで私が持ち出してみたいのは、現象学的なそれとは全く違うタイプの「知覚」の捉え方としての、ベルクソンやドゥルーズの議論です。乱暴な要約になりますが、ベルクソン的な発想では、現実の知覚というのは、むしろ実際の対象を減らす、縮減ないし削除することによって人間に届くものだ、と考えられます。つまり、メディアを通すことで何かが欠如する、制約を受けるというより、そもそも人間の知覚においては、現実そのものが縮減されて受け取られている、という考えをとるわけですね。ドゥルーズなどはベルクソンのそうした発想を前提にした上で映画理論を組み立てていくことになりますが、20世紀も末になってのドゥルーズの映画論の登場を待つまでもなく、たとえばベンヤミンがいう「視覚的無意識」などに典型的に見られるように、古典的な映画理論の時代から、映画は「人間による現実の知覚の再現」より以上のものを獲得できるのだと主張されてきました。つまり、現実の知覚では縮減されてしまっているものを、機械の眼という媒体、メディアを通すことによって、かえって知覚できる、獲得できるのだというロジックが、映画の特性を主張する際の一つの強力なパターンになっていたといえると思います。
もちろん実際には、多くの商業的な物語映画というのは、森本さんも言及されていたように、基本的には編集などの何らかの操作を通して、人間の通常の知覚の再現に向かうものです。ドゥルーズがいう「運動イメージ」の時代の映画ですね。しかしドゥルーズは次に、「時間イメージ」という概念を打ち出してきます。乱暴な要約が続いてしまいますが、時間イメージにおいて映画が現出させるのは、「純粋に光学的音声的な状況」などと形容される事態であって、そこではもはや人物の行動の連関は断絶してしまっている、とされます。
説明が少々長引いてしまいましたが、このように、「現実」に対する「知覚」の捉え方をめぐって、ベルクソン=ドゥルーズ的な発想というのを視野に入れてみると、ここにいたって物語経験における「人物」のあり方が問われることになってきます。ごく素朴な感覚からすれば、時間イメージにおける映画の力が、「純粋に光学的音声的な状況」を現出させることのなかにあるとすれば、物語経験における「人物」の優位は揺らいでしまうように思えます。また、ドゥルーズが時間イメージの具体例として名前を挙げているのは、イタリアのネオレアリズモであったり、フランスのヌーヴェルヴァーグであったり、あるいは日本の小津安二郎であったり、いわばハイアート的に受容されやすいタイプの映画たちですが、逆に、後で具体例を挙げたいと思いますが、ごく卑俗な大衆娯楽としての映画というものを考える際にも、やはり「人物」というものの位置づけには再検討の余地があるだろうと思います。
というわけで、えんえんと「映画」を例にして説明してきましたが、やはりここで、同じく大衆娯楽として発展してきた「マンガ」における「人物」のあり方というのが気になってくるわけです。先ほど中田さんとのやりとりの中でも出てきた論点と重なってくる(したがってかなりの部分がすでに解決されてしまった気もする)点ですね。
「人物」の行為によらない物語駆動
事前に拝読していた論文からの引用になりますが、森本さんは以前、こんなことを述べていました。「書き割りのような背景の前で、ステレオタイプの〈人物〉が「お約束」通りの行動を繰り広げる作品には、「リアリティ」の生じる余地はない。(『ナラティヴ・メディア研究』第四号、63頁)」。森本さんは、キャラとキャラクターの区別もつけなくていい、と仰っていますし、そもそもミメーシスの概念を古代ギリシャのアリストテレスから引用されている。しかし一方でやはり、「物語」というものの本来的なあり方というのを、極めて近代的な枠組みにおいて考えていらっしゃるように聞こえるんです。先ほどの引用とは別の箇所でも、近代小説ではステレオタイプな人物は高く評価されない、といった事例に言及されていますが(同前、82-83頁)、物語一般について語ると同時に、近代的な小説の枠組みが、一種の理念、理想としてあるように感じるんですね。
もしそのような発想が前提にあるとすれば、それをマンガや映画のような大衆娯楽として発展してきたジャンルに当てはめる際には、やはり先ほどの「キャラ」のような存在をめぐる問題がどうしても出てくるのではないかと思います。つまり、「実存」としての「キャラクター」やその行為というのが必ずしも物語経験の核になっておらず、ステレオタイプや「お約束」をむしろ積極的に活用しているジャンルとして「マンガ」を捉える必要性があるはずなのです。
もちろん、先ほどから長々と例に出している「映画」も含め、そのようなジャンルはマンガに限らず、様々な場所に見つけられるでしょう。以下、ひとつひとつを吟味したわけではないので、思いつくままに挙げるだけになってしまいますが、そもそも古典悲劇というのも、人間の思惑を超えた運命が支配する世界だと思いますし、ピーター・ブルックスがいう「メロドラマ的想像力」では、善悪の二元論が(人物の実存を通してというよりも)象徴的に示されると考えられます。さらに、しつこく映画の例を挙げれば、映画における二種類の運動をめぐる議論があります。デイヴィッド・ボードウェルはこれを言葉の上でも区別していますが、一つ目の「アクション action」は、主体としての人物が起こすものであり、次の目標へと連鎖してゆく。非常に「自己同期」しやすい物語を作る演出になりうるものですね。しかしもう一つの「ムーブメント movement」は、非人間的な運動全般、自然や機械の運動、つまり偶発的な、世界の中で偶発的に起こる運動のことです。ボードウェル自身は、古典的なハリウッド映画、物語映画では人物の「アクション」によって物語が駆動されている、と説く一方で、古典的ハリウッド映画の重要ジャンルである「コメディ」や「メロドラマ」が実はこれに当てはまらないということも認めています。たとえばコメディでいうと、『バスター・キートン』の身体性には機械的な運動との親和性が指摘されていますし、彼は基本的にポーカーフェイスを貫きます。あるいはメロドラマというのは、普通の意味ではいかにも「人物」に感情移入しやすそうですが、実際には「偶然の再会」のような要素が強くプロットを支配しており、人物の主体的なアクションによって物語が駆動されるという描き方をしていません。もっと通俗的なジャンルとして、たとえばリンダ・ウィリアムズのような研究者が論じている、ホラーやポルノや(女性向け)メロドラマなどがありますが、これらのジャンルにいたっては、物語を経験する受け手の解釈がどうこうというよりも、描かれている内容がそのままダイレクトに受け手に伝わるもの、そのように想定されうるものと考えられます。
いま特に最後に挙げたような、通俗的といえばあまりに通俗的な側面というのが、マンガや映画のような大衆娯楽、少なくとも大衆娯楽として産業的に発展してきた芸術を考える上では、避けられない問題なのではないか。そのとき、実存としての人物を描く、といった発想そのものが持つ枠組みが、否応なしに問い返されることになるのではないか。森本さんの発表を受けて、マンガ研究の立場から私がお聞きしてみたいのは、このような論点です。いかがでしょうか。
物語のジャンルとリアリティ
森本:重要なご指摘、ありがとうございます。正直言って、ちゃんと詰めて考えていないということもあるんですが、確かに、ある種の規範性を私自身が求めているという部分はありますね。というよりも、この種の話というのは、どこかでやっぱり私的な興味関心から始まるわけです。私自身、できるだけ幅広く見ていきたいとは思っていますが、あらゆる作品に対して客観的・中立的な視点で向き合えるはずもありません。引用していただいた原稿を書いた時点でかなり規範的な意識が働いているのは、ご指摘の通りです。自分でも「実存」っていう哲学用語を使うのは誤解を招くかなあと危懼しているところですが、なにか高尚な意味で使っているわけではなくて、そこに人間が生きている、そこに世界があって、その世界と関わりながら人間が存在してるっていう、そういう視点から関わるのが物語経験だというふうに私は思っているので、そのことを「実存」という語で表現したいわけです。それで、ボーダーというか線引きというか、それがどういうふうにできるのかわからないんですが、今おっしゃったホラーとかポルノといった類のものは、純粋に一種の刺激を享受するための手段として作られているとすれば、それはやっぱり物語ではないのではないかと思います。私の考えでは、ストーリー、あら筋と呼べるようなものは、ジャンルや作品を問わず見いだせるかもしれませんけれども、それが物語であるかどうかの焦点ではない。今日お話ししたような意味での物語経験、P1的なレベルでの人物への自己同期やそれによって得られる世界経験といったものが目指されていないとすれば、それはここで問題にしている物語ではない、というふうに私としては考えていきたいわけです。だから、映画と呼ばれるもののすべてに妥当するような話をしているわけではありません。当然そこにはいろんなタイプのものがあっていいわけですし、それを別に否定するものでもない。様々な映画が作られ、それぞれの仕方で消費されている。それはもう事実としてそうだと思います。ところで、ちょうどいま悲劇の例を出されたので、少し文学論的な観点から補足をさせてください。アウエルバッハというドイツの文献学者をご存知かと思いますが、1940年代に『ミメーシス』という有名な本を出した人です。副題が「ヨーロッパ文学における現実描写」で、まさに物語におけるリアリティとは何かということを、古代から現代に至る数多くの作品を分析しながら論じたものです。例えばギリシャ文学において、悲劇と喜劇というのは根本的に違うものだったと、アウエルバッハは言います。アリストテレスは『詩学』で、ミメーシスつまり再現的な文学として悲劇を論じているわけですが、それは高貴な人間が本来陥るべきでない不幸に陥るという内容を持ったジャンルです。古代ギリシアの演劇では、どういうタイプの人間が主人公になるかということまで決まっていて、普通の人間は悲劇の主人公にはなりません。庶民の日常生活を描く時には、それは喜劇、つまり類型化されたキャラクターが出てきてどだばたを繰り広げて笑わせるというタイプのものにしかならない。使われる文体からして違うわけです。これはどういうことかと言うと、人間の行為における現実性、リアリティを追求するようなミメーシスの枠組の中に、喜劇は入ってこない、つまり現実的な人間生活はそもそも物語の対象にならないということです。ところが、中世を経て近代に至ると、日常的な現実それ自体がまじめな文学の対象となり、そこに一種の悲劇性を見いだすようになってくる。そうして成立したのが近代小説です。ヨーロッパの文学伝統では、喜劇的なものっていうのは、物語的なリアリティとはかけ離れた位置に置かれてきたわけです。そこで、では、コミックあるいはマンガというジャンルが、もともと笑いとか、あるいは三輪さんが大衆性とおっしゃった要素と結びついているのだとすると、つまりそれは本来喜劇的なものだということになるわけですが、そこにどうやって物語性を、あるいは再現のリアリティを求めることができるのか、という話になってくるわけです。マンガは笑いでいいではないか、文学的なものを求めるのは「お前の好みだろう」と言われればそれまでですが、しかし、やっぱりマンガの歴史というのも、もともと喜劇的、カリカチュア的なところから出てきたかもしれないけれど、それが徐々に洗練されていって、日常的な人間生活の現実を描きとる表現方法を作り出してきた、それによって今日見るような物語ジャンルに成熟してきた、と言えるのではないかと思います。もちろんそういう評価の仕方じたいに私のセレクションが入っていることは事実で、それは全然否定はしません。
三輪:ありがとうございます。実のところ私も、個人的には非常に近代的な、まるでポストモダンに対応していない人間なので(笑)、大変共感しながら森本さんの論文を読ませていただいていたのですが、今日の発表といまの応答を伺って、やはり線引きやセレクションがあるのだということを確認できてよかったです。
またその意味では、今日のイントロで夏目先生は、自分たちの表現論は物語を棚上げしてきたと仰いましたが、先生が90年代に「自意識」などのキーワードによって手塚治虫を論じつつ、「物語」という言葉を使われていた際には、まさに今日論じられたような意味での「物語」の条件をマンガ論において考えていた、準備していたのではないかと私は思います。
それから、いま私のコメントにお答えいただくなかで、「リアリティ」を重要なキーワードとして取り上げてくださいましたが、物語一般をめぐる森本さんの議論が、マンガ研究に対して与えてくれる大きなヒントが、まさにこのキーワードから出てくるように思います。先ほども述べましたが、かつて古典的な映画理論は、他の芸術との関係と同時に、現実との関係をも問題にしなければなりませんでした。一方だけ、つまり他の芸術と比べるだけでもなく、現実と比べるだけでもなく、その双方と自らとの三者の関係を問わなければならなかった。映画がやむなく置かれたこの状況というのを、私は非常に可能性に富んだものだと思っていまして、マンガもそうした複数の角度から捉えてみたいのです。これまでにも、マンガを映画と比較したり、マンガを文学と比較したりといった議論はたくさんありますし、逆にマンガを現実と比較する議論というのもたくさんありますが、そういった二項関係ではなく、三項関係のなかでマンガを理解しようとする試みです。
そして、そんな試みを目指すにあたって、今日の森本さんの発表を受け、「物語」そのものを、たとえば「再現」や「ミメーシス」、あるいは「人物」や「知覚」、そして「リアリティ」といった別の概念を用いて言い換え、考えていくことが、大きな手がかりになるのではないかと思うのです。今日の議論は、表面的にはあくまでも物語一般の議論であったように見えますが、そのような形で引き受けることで、マンガ研究にとっての優れたヒントになりうるはずだと、私は感じました。
森本:ありがとうございました。却ってこちらが考えていることをうまくまとめていただいたな、という気がします。あらかじめマンガという外延はこれこれ、映画の外延はこれこれと決まっていて、マンガを論じる以上すべてのマンガにあてはまるような理論でなければいけない、といった発想をしていないわけです。逆に、物語というものをこういうふうに定義する、定義とは言わないまでも、こういうものだと考えてみよう、というところから出発する。私の場合それは、行為の再現ということを起点にして、再現のリアリティが問題になるものを物語として考えようとしています。そのように考えた時に、映画の中のどういう部分がそれに関わってくるのか、マンガだとそれはどうなのかというふうに問いを立てています。ですから当然ながら、すべてのマンガを括れるような話は、今日のような視点からはとうていできないだろう、というふうには思います。
佐々木:みなさん、どうもありがとうございました。興味深い論点がたくさん出てきて、頭の中がもういっぱいになってきましたが、物語というのはそもそも何なのか、物語経験というものをどうとらえるべきなのか、という根本的な問題にも突き当たってくるような気がします。今回森本先生は、そのことについてご自身の立場をはっきりさせながら示して下さったので、違う立場の方にとっても、考える手がかりやきっかけみたいなものをたくさん示していただいたように思います。最近のナラトロジー自体、広い分野でさまざまな角度から研究が進んでいることのようですし、ここでの議論も、わかりやすい結論を出そうということではなく、多くの論点が見えてくること、それ自体が成果ではないかと思います。我々が今日この討議をはじめたのも、ナラトロジーという考え方でマンガを検討したい、ということの一方で、そうすることによってナラトロジーに対する寄与もあるんじゃないか、という予感もあったりするわけですし、これからじっくり論議が深まっていったら、と思います。さて、ひと回り発言が出たところで、さらに掘り下げてみたい点のある方がいらっしゃいましたら、発言をお願いします。