マンガ研究フォーラム「マンガのナラトロジー ―マンガ研究における〈物語論(ナラトロジー)〉の意義と可能性」
日時:2015年11月14日(土)13時30分~17時40分
場所:学習院大学・南1号館201教室(東京・目白)
発表:「物語経験の時間性」森本浩一(東北大学大学院文学研究科教授)
キースピーチ:「マンガ研究の転換期について」夏目房之介
コメンテーター:野田謙介、中田健太郎、三浦知志、三輪健太朗(発言順)
進行:佐々木果
(発言録テキスト作成:田原康夫、文責:佐々木果)
当日は、冒頭に夏目房之介氏からキースピーチがあった後、森本浩一氏の発表が約90分行なわれた。休憩をはさみ、後半はコメンテーター4氏による発言と森本氏の応答がなされた。最後に会場の参加者からの質問を受けつけ、討議を終了した。
ここに採録するのは後半のコメンテーター発言以降の記録である。前半の内容については、別にレポート記事があるほか、「ナラティヴ・メディア研究」第5号で詳細を知ることができる。(「ナラティヴ・メディア研究」については、2015.11.14「マンガのナラトロジー」について を参照)
佐々木:それでは、森本先生の発表を受けて、コメンテーターの方々に発言をお願いします。今日は、マンガ研究に関わっておられる4人の方に来ていただいていますので、主にその立場からコメントをいただけたらと思います。では最初に、野田さんからお願いします。
野田氏のコメント――「同期」とミメーシス
野田:はじめに発言するようにとのことですけれど、そうですね……、今日の森本先生のお話はとても密度の高いお話でしたので、自分なりにどう理解したか、まとめのようなものからはじめさせていただいて、のちの議論の足がかりにでもなればと思います。とはいえ、なかなか難しいお話でしたから、あまり上手くまとめられる自信はありませんが。
森本先生、今日はとても刺激的な発表をありがとうございました。お話をうかがっていて、今日のキーワードのひとつは、「同期」という言葉だったのかな、という印象をもちました。アリストテレスの「再現」、つまりミメーシスからお話をはじめられたわけですけれど、このミメーシスも、広い意味では「同期」と同じ意味で用いられることがあります。
今日では、一般的に、ミメーシスという言葉は、模倣、コピー、物真似といったマイナスのイメージと共に語られることが多いかもしれません。その一方で、この言葉にもっと広い意味合いを込める人たちもいます。たとえば、他人がタンスの角に足の小指をぶつけたのを見たとき、非常に痛いと感じる。自分も痛いと感じる、といったときに、「痛いように」感じるんじゃなくて、本当に痛いような気がする、ということを思いだしてもらえればいいかもしれません。あるいは、自分が車を運転していて何かにぶつけてしまったとき、思わず「いたっ」と叫んでしまう。自分が痛いはずはないのに、です。
それは、最初の例でいえば、他人に、人にミメーシス、同期していて、二つ目の例であれば、車自体にミメーシスしている、とも言えるわけです。つまり、森本さんはフッサールの「対比」という言葉を用いられていたと思うんですけれど、他にも、たとえば、ベンヤミンが「模倣能力」と呼んだような、我々が本能的に実は持っているはずの認識能力のことを、広義のミメーシスと呼ぶことができるでしょう。なりきる、という言葉で言い換えてもいいかもしれません。バレリーナの踊りを見ている子どもが、魂が抜けたように自分が一緒に踊っているような気持ちになる。そういう本能的で根元的な能力を我々はもっているはずなのに、今日では抑圧している。なぜかというと、自我というのが、現代ではきわめて強いものとして作用しているからです。
日本語だと、古くから「我彼(われか)の気色」という言葉で、我と彼の区別がつかない状態を指したわけですけれど、そういう、我々が本当は持っているはずの自我を超越する本能的な認識能力みたいなものも含めて広義のミメーシスと言うのであれば、「同期」もそれに近いものと言えるでしょう。その一方で、作品を作り出す、制作のミメーシスを狭義のミメースとでも呼べるのだとすれば、ポール・リクールが『時間と物語』において、制作のミメーシスをミメーシスIIと名づけ、その前段階と後段階を、それぞれミメーシスIとIIIと呼んで、同じ言葉を適用することによって3者を関連づけことも、正当であったかと思います。
もちろんリクールのミメーシスには分節するという側面がありますし、森本先生の自己同期には他者における世界の反映という重要な特徴があるので、簡単に同一視すべきではないのですが、その上で、あらためて森本先生のお話をふりかえってみると、1章が作品制作そのものの段階において行われるミメーシスと、重要タームの導入、2章と3章は、作品受容におけるミメーシス、あるいは同期が扱われていたという意味で、つながっていた話題であったと言えるかと思います。その中でも、2章は作品受容レベルでの語り手への同期、3章は登場人物への同期とに分けられていました。
ただ、注意しなければいけないのは、ここで述べられていた、語り手へのミメーシス、あるいは自己同期に関して、語り手、というのがいわゆるナラトロジーにおける語り手であって、一般的に言われる「作者」ではないということですね。もちろん、それを作った作者は現実に存在するわけですけれども、そうじゃない誰かが作品を語っているはずだ、という前提があるわけです。このナレーター、語り手っていう概念を重要視したのが、ジュネットという人であったわけですが、それはその、なんていうんですか、ネガ的な、浮き上がらせる言い方でしか指し示せない、「誰かわからないけども少なくとも自分じゃない誰かが語っているはずだ」という意味での語り手です。で、その語り手への自己同期と、それから、登場人物への自己同期。レジュメにあるNとPと……、おそらく、ナレーターのNと、パーソンのPという略語じゃなかったかと思うんですけれど……、それぞれへの、自己同期あるいはミメーシスというのが、物語経験の根本にあるのではないかという見方を示されていました。
森本さんの今日の発表で特に重要な点は、この自己同期先の対象をNとPにわけるだけでなく、現象学的時間と、それから、宇宙論的時間というさらに二つの区分を、受け手の「構え」の分類として導入したというところだったんじゃないかな、というふうに思います。
これが、1・2・3章までの話なんですけども、つまり現実世界の経験、その哲学的あるいは現象学的な経験と、それから、基本的に文字による物語経験についてのお話しですね。そこでは、小説あるいはテキストに対して、受け手つまり読者が、「どういうふうに読んでいるか」ということについて、微細に分析するための道具立てを準備したうえで、我々の物語経験を記述することが主眼とされていました。で、それを行った上で、4章においては、文字ではなくて、イメージによる物語として映画とマンガというものを、今回のテーマに合わせて持ってきていただいたのだと思います。この図式、あるいは道具立てを映画やマンガに当てはめるとどうなるか、というのが今回の森本先生の発表だったと言えるのではないでしょうか。個人的には、そのように理解しました。もし、何か根本的に勘違いしているところがあれば、まず、ご指摘していただければ。これで、あの、「さらに話がややこしくなった」と言われたらどうしようもないんですけれども……。(会場笑)
森本:あの、私以上にうまくまとめていただいて、ありがとうございました(笑)。特に、リクールのI・II・IIIのミメーシスの話は、まったくカットしてしまったんですが、それに関連付けていただいて、おっしゃる通り、一応頭の中にはちょっとそれはありましたけれども。ありがとうございます。
ナレーションと言語の問題
野田:多少なりとも要約したという独断と偏見によってですね(笑)、次に話を進めていきたいと思うんですけれども、今日は、コメンテーターということで、我々4人が、それぞれの自己紹介を含め、森本先生のお話のどういうところに興味を持ったかということを順番に話してく、ということでよろしいでしょうか? 私はですね、夏目先生に最初ちょっと紹介していただきましたけれども、グルンステンの『マンガのシステム』という本を訳させていただいていまして、日本のマンガと海外のマンガの比較、あるいは日本のマンガに関する理論と、 それから海外におけるマンガ理論を比較検討しながらマンガについて考えていきたいというのが基本的な研究姿勢です。その自分の興味あるいは研究範囲から見ると、物語論、ナラトロジーというのは今とても面白いところだな、というふうに思っています。たとえば、『マンガのシステム2』という本をグルンステンが書いているんですけども、実は『マンガのシステム2』っていうのは副題で、「バンドデシネとナラシオン」、つまりナレーションというのが、メインタイトルなんですね。ナレーションというのは、最初に夏目先生がおっしゃっていたように、形式的なマンガ分析の後に、あるいは、表現論的に分析した後に、見えないものでありながら、でも実はすごく大きいな問題であるはずの「物語」、つまり内容に踏み込んでいく際に、ひとつの大きな切り口になるんじゃないかと思って、以前から興味を持っています。
森本先生への具体的な質問としては、海外でのマンガ研究でナラトロジーを導入しようとしたときに、みんなが最初問題としているのは、ちょうど今日、森本先生が、「ここは深入りしない」といったところなんですけども(笑)、「ナレーターっていうのが本当にいるのかどうか」という問題です。
もともとナラトロジーは、言語学を基本にしているところがありますので、つまり、書き文字よりは話し言葉、発声したもの、が基本になっているところがあります。だからこそ、たとえば、言葉の線状性、直線性というふうに言われますけれども、それは、発声するときに、ひとつひとつの音を順番に発声するしかないという制約から、そう言われるわけです。ところが、実際にテキストを読んでいる経験と照らし合わせてみると、必ずしもそうではないことは、われわれがよく知っていることです。あるいはですね、語りというのが、口承文学として発声されるためには、計測可能な時間の長さが必要である。それに対して、物語世界で進む時間というのは、それとはまた違った時間であり、両者の大小関係が測れる、計算できるという発想も、書き文字ではなくて、発声される言葉、音っていうのが、基本になっている。そのように、発声された言葉というのが、非常にやはり、言語学の、あるいはクラシカルなナラトロジーの基礎になっていると思うんです。その文脈では、ナレーターという概念は非常にわかりやすいんですね。その、誰かが語らないと発声されないわけです。ただ、じゃあ同じようにマンガにおいて語り手っていうのはどこにいるんだろう、我々は出会ったことがあるんだろうか、ということになると、非常に不安になるところが実はあって、それがその、おそらく、ナラトロジーをマンガに適用していく際の、ひとつの大きな敷居として表れてくるところじゃないかな、と思うんです。今日は「そこは考えない」とおっしゃっていたところなので、そこを聞くのもなんなんですけれど、個人的に興味があるところなので、もしなにか、思索の過程で思われたことがあれば伺ってみたいな、というのが、最初のコメントです。ちょっと長くなりましたが、すみません。
森本:野田さんが訳された『マンガのシステム』の中で、「言表されるもの」というのが出てきますよね。あれは、フランス語では何だったのでしょうか。
野田:あれは、「エノンセ」だったと思います。
森本:エノンセですか。あれは、言葉そのものというよりは、発話・言葉によって概念的に捉えられているもの、というふうに考えていいでしょうか。
野田:あくまで僕の理解で、グルンステンが本当にどう考えているか知らないんですけれども、少なくともあの段階では、結果として現実世界に存在を与えられたもの、ぐらいの意味で、そんなに厳密には考えてなかったと思います。その後に精緻化されたのが、東北大学にグルンステンが招かれた際に討議テキストとして取り上げられていた、「提示主体、叙述主体、および語り手の影(The Monstrator, the Recitant and the Shadow of the Narrator)」においてでした。その中で、語り手つまり「ナレーター」だけじゃなくて、提示する審級としての「モンストレーター」と、いわゆるナレーションを担う審級としての「レシタン」という、2つの概念がさらに必要なんじゃないかと、そう語られているのは、おそらくそこを精緻化して考えた結果、出てきた概念だというふうに、僕は理解しています。
森本:「語り手」の問題については、今日は逃げちゃってるんですが、受け手から見て何かが語られているという事実がある以上、「語り手」を想定していいという発想でお話しました。確かに、「語る」というのは言葉を発するということと語義的に結びついていて、だからマンガには語り手がいるのかという疑問も出てくるわけですが、結局それは、「言葉って何?」という問いに行き着くと思うんです。実体的には言葉もただの音であって、音を概念と結びつけて我々は出来事を表象している。マンガを読んでいるときは、絵からそこで何が起きているかを理解していますよね。そこでも必ず概念的な理解をしているはずなんです。だから、メディアとして、純粋な象徴記号である言語を用いるかイメージを使うかで、様々な効果の違いは出てきますけれども、少なくともグルンステンが言う「言表されたもの」が、そういう概念的に組み立てられていく出来事の表象だとすると、それを作り出しているという点において、マンガにも語り手があると考えていいのではないか。「語り」っていうのを少し抽象度の高いところで捉えてみようということです。受け手側から見たとき、明らかにそこに何かが語られている。語られている以上、それを語っている主体を受け手の対極の側に位置づけてもいいだろうという理路で考えています。それをとりあえず「語り手」と呼んでいます。文学の場合は確かに、一人称の語り手とか、全知の介入的な語り手とかが姿を見せるので、語り手の存在がわかりやすいんですが、しかし逆にそれゆえに、文学における語りは複雑化しているという面もあります。人称的な語り手に語らせている本来の「語り手」についてジュネットも言及していたと思いますが、むしろそちらの方が私が今日述べた語り手です。同じようにマンガにも、絵で語っている語り手が存在すると考えるのは、それほど奇妙なことではないと思います。
中田氏のコメント――記号論的か存在論的か
佐々木:今のやりとりで、すでに重要な論点が出てきていますが、まずはひととおりコメンテーターの方々の発言をいただきたいと思います。次に中田さんお願いします。
中田:今日は、たいへんに密度の濃いお話を、ありがとうございます。中田と言います。ぼくはフランス文学について勉強しながら、マンガのことも考えはじめていた人間です。なので、ナラトロジーとマンガをめぐる今日の森本先生のお話には、二重の意味でたいへん興味を引かれています。
マンガ研究・批評のなかでは、ナラトロジーや物語というのはなんとなく語りづらいものだ、という印象をもってきました。夏目さんが冒頭にお話ししてくださったように、マンガ表現をめぐる近年の(90年代半ば以降の)研究は、物語のような見えないものを一端捨象して始まった側面がある。あるいは、より最近の研究では、手塚マンガをストーリーマンガの起源とするようないわゆる「手塚起源論」への反発にともなって、「ストーリーマンガ」という概念についても自明なものとせずに懐疑的に考える風潮が強くなっていたように感じます。それも、マンガのストーリー・物語について正面から語りづらい理由のひとつだったかもしれない。
さきほど野田さんが言われたとおりですが、だからこそいま、マンガにおける物語は論じのこされた重要な問題になっている。ぼくも文学を研究しつつマンガのことを論じてきたと言うからには、この大きな問題について考えなくてはいけないなと、お話を聞きながらあらためて思いました。もちろん、主に作家研究をしてきたぼくに言えることは限られていますし、言語をめぐる哲学に裏打ちされたこの議論に十分に応答できるかは分かりませんが、それでも文学研究者の一人としての感想を述べさせてもらえればと思います。
フランス文学を勉強していて、ナラトロジーを囓らなくてはと思っているときに、ぼくが耳にしていたのは、構成主義や構造主義のなかででてきた研究、あるいは記号論的な言説でした。研究者で言うと、バルトとかジュネットといった名前がまず思いだされる。しかし、今日の森本先生のお話を聞きながら感じていたのは、議論がけっして記号論的なものではなかったことです。読み手の経験を軸として、物語内の他者にどのように同期するのかと考えていくこの議論は、むしろ存在論的なものだと感じました。参照される名前にしても、ジュネットよりフッサールやハイデガーのほうが目立っていたようです。ほんとうに、物語をめぐる言語哲学を、ご自分の体系として作り上げられているという気がします。
今日のお話ではとくに、なにを重要と考えるのかという、倫理的な力点も明確にしめされていたので、これは森本先生自身の理論体系なのだなということをいっそう強く感じました。議論をごく簡単に振りかえるなら、リクールが言うような「宇宙論的時間」と「現象学的時間」がまず対比されているわけですよね。宇宙論的時間というのは客観的な時間で、たとえば歴史を叙述する「通時的な」次元と考えられる。一方で、現象学的時間のほうはより主観的な時間で、たとえば物語を「現在的な」経験として語る。その二つの時間と、語り手および登場人物という二人の人物にたいする読者の同期とを考え合わせることで、読み手の物語経験を四つに分節して議論していただきました。
ご発表の力点はやはり明確で、その四つの物語経験のうちの「P1」、つまり読者が登場人物に「現在的な」次元で同期するという経験が、特権的に語られたわけです。たしかに、物語を経験しているときに、登場人物と自分が重なるような感覚があることは、よく理解できます。しかし、記号論的なナラトロジーを前提に考えていた自分には、この特権化はすこし意外なものでもありました。現在時での同期を特権化する考えは、記号論的なものではまるでなく、やはり存在論的なものだと感じます。
現実への準拠
それから、物語の「目的」や「価値」自体についても、森本先生の議論は明確な立場をしめしていました。フィクションにおける物語は、行為を再現するものであり、その意味で現実にもとづいているというわけです。そして、だからこそ各メディアは、現実の知覚を再現するために、現実にたいして欠如している部分を補填しようとする。その欠如の補填という観点から、個別メディアの物語に関する特性を考える、というのが発表の後半部分であり、今回はとくに映画とマンガをとりあげていただきました。
現実を基準として、フィクションの物語をその再現・ミメーシスとして位置づけるというお考えは、それとしては理解できるのですが、しかしある種の階層構造が前提となっているようにも思いました。さきほど野田さんも話題にされていた再現やミメーシスという概念は、このご発表では語源に近い意味で念頭におかれているように感じます。つまりプラトン的な意味で、イデアのミメーシスとして現実があり、そして現実に準拠したミメーシスとしてフィクションがあるというような、階層秩序が前提になっている気がしたんです。
もちろん、それは整合性のあるひとつの考え方なわけですが、しかしぼくなどは直感的に、フィクションを現実に準拠したものと限定しなくてもよいのではないか、とも思います。このように思うのは、自分の研究しているフランス近現代の文学や美術のなかでは、フィクションを現実から自律したものとしてとらえ、むしろミメーシスでいいんだと開き直るような傾向が、比較的強かったからかもしれません。こうした立場からすると、メディアは現実にたいして欠如した部分を補填しようとするものだ、というさきほどの議論にたいしても、メディアは欠如したままで自律していいのではないか、というやはり開き直ったような意見がでてきます。フランス近現代芸術の、あるいはモダニズム以降の議論では、むしろ欠如した状態への自覚を究めていくことがメディアの(メディア・スペシフィックな)努めだと言われるわけです。
そのようなわけで、森本先生が力点を置かれた、現在時での同期と、現実への準拠という二つの問題について、自分の直感的な意見を述べさせていただきました。現在と現実(「いま・ここ」)に価値を置いて物語経験を考察する森本先生の議論は、ひとつの倫理的な立場をしめされているように、あらためて感じます。ただ、フランス文学者として意識していた記号論的なナラトロジーや、あるいはフランス近現代芸術におけるミメーシスやメディアの考え方に慣れたものからすると、現在の現実以外のところから価値を立ち上げるような、別の議論の可能性もあるのではないかと感じたのも、率直なところです。
いかにも「フランス的な問題」として一般化したように話してしまいましたが、ひょっとするとこれは、多分にぼくの個人的な趣向の話であるかもしれません。やはりぼくなどは、読者はなにも現在時に同期しなくても、メディアは現実にたいして何かを埋め合わせなくても、いいんじゃないかなとつい思ってしまいます。登場人物に存在論的に同期して、投企の疑似体験をしなくても、むしろあまり人間とは思えないようなキャラがあまり現実的ではない世界を立ち上げてしまうマンガの楽しみというのも、否定できないのではないか。なんだか、しだいに人生観の話をしているような、たんに自分が弱い人間であると言っているような気になってきましたが……(笑)。
しかし、これは日本マンガについて考える場合、忘れがたい点なんじゃないかとも思います。伊藤剛さんの『テヅカ・イズ・デッド』の分類で言えば、「キャラクター」ではない「キャラ」の世界というのは、日本マンガの主要な問題でありつづけている。外国のマンガ研究などを見ても、やはり日本のマンガにおいては作品世界から「浮遊するキャラ」が重要なんだ、という議論は切実なものです。なので、最初の質問としては、登場人物に同期しない、現実に準拠しないような物語経験の可能性については、どのように考えられるかということを、うかがってみたいと思います。
ミメーシスのリアリティ
森本:ありがとうございます。かなり違和感のある中で、好意的に聞いていただいて、ありがたいなと思います。まず最初のミメーシスの問題についてですが、私自身も、プラトン的な意味で再現が現実に従属すると考えるわけではありません。プラトンの場合は、イデアの世界、真実存在の世界があって、それの模倣として現実世界がある。さらにその現実の模倣としてポイエーシスがある。詩は模倣の模倣だから価値がないという話になるわけですが、リクールの場合、再現の対象となる時間そのものは表象不可能、思考不可能であり、それを表象可能にするために、一方では歴史があり、他方にはフィクションがあるという構図になっています。リクールは三段階ではなく二段階で、フィクションは歴史に従属していません。だから、むしろフィクションの独自性を高く評価している。プラトンは完全に貶めるんですけどね。私も今日はリクールの構図で話をしていますから、中田さんの言われるフランス的な捉え方に近いと、自分では思うんですけれども(笑)。うまく伝えることができていないかもしれませんが、ミメーシスがミメーシスとして持つリアリティを問いたい、そこに重要なポイントがあるというように考えているので、単純に現実への準拠を問題にしているわけではありません。二番目の点はですね、「キャラ」/「キャラクター」論をさんざん聞かされてきたので(笑)、いろいろ考えるところはあるんですが、確かに私自身は、物語の中の人物造形において、単純な属性の集合体としてのキャラというのはありえないんじゃないか、という立場です。一方に、属性に注意を向ける、それを愛でるというような享受の姿勢があり、他方に、深く人物に入り込んでいくような実存的な享受の仕方があるというふうに、二項対立があるとは考えていません。人物のキャラ的な側面に注意を向けているとしても、少なくともそれが「物語」の享受である限りは、その人物はその受け手にとってなにがしかの人間的なリアリティをもって立ち現れているんじゃないでしょうか。欠如の補完とか人物への集約といった比喩的な言い方が適切かどうかはわからないのですが、いずれにしても、キャラとキャラクターを二項対立化することには、私は無理を感じます。物語内の人物としてではなく、ただ図像として見ているというのであれば、わからなくはないのですけれども、少なくとも、物語的に享受される世界がそこに作られていっているというときは、世界とそのキャラクターは結びついていると思うんですね。本質的にはその世界を享受することが物語経験だと思うので、それはもう、たとえドラえもんの世界であろうと、ある世界を生きる存在が描かれているのだと思います。
中田:物語経験というものを、どのような範疇でとらえるのか、考えが分かれるところなのかもしれませんね。しかし、やはり個人的には、『ドラえもん』のキャラたちを、物語世界に投企された人物として経験しなくてもよいのではないかと感じます。ドラえもんたちのことは、あまり実存的ではない者として読み、思いだしてきましたし、それもひとつの物語経験であった気がします。
森本:つまり、人間的ではないということでしょうか。
中田:そうですね。人間としての悲哀を帯びて、世界に投げ込まれていなくても、マンガのキャラたちの物語には意味があるんじゃないかなと……。ゆるキャラみたいなものに励まされる人生があっても、いいんじゃないかなと。(会場笑)
森本:おっしゃることはわかります。私自身ちゃんと詰めきれていないので、さらに考えてみます。ただ、実存というのはかなり広い概念として使っているつもりではあるんですけれども。どうもありがとうございます。
物語るイメージ
中田:ありがとうございます。それから、もう一点いいでしょうか。ご発表の最後のところで、マンガというメディアの特性について主題的に多くのことを論じられていて、とても大きな示唆をいただきました。その議論のすべてに応答することはできないのですが、ひとつだけやや大雑把な質問をさせてください。
マンガにおけるイメージは「あら筋」を語るものではなく、作品世界の「印象」をもたらして物語経験を支えるものだ、というのが議論の方向性だったと思います。マンガにおいてはイメージないし「絵」が世界を成立させるのではなく、それらは概念や「言葉」に制約されている。だから、マンガは文学に比較的近いメディアとして考えられる、というわけですね。これも、さまざまなメディアを対比的に考えてこられた森本先生の判断として、一貫性のある話として聞きました。
しかし、やはりマンガは、言葉と絵が協力して、ときには渾然一体となって物語るところにその特徴があります。ですから、(このシンポジウムの標題でもある)「マンガのナラトロジー」という問題をあらためて設定するとき、個人的には概念とイメージを対比的にとらえないようなナラトロジーの可能性も、あってよいように思います。つまり、言葉・概念だけが物語を語るのではなく、イメージ自体が物語るということも、考えられるのではないでしょうか。
じっさい、マンガにおいては概念とイメージが、あるいは言葉と絵が、境界をなくして働いている事例を多く見いだせます。たとえば、マンガのフキダシの外に、活字ではなく手描きの文字が書き込まれていることがよくありますよね。あの手描き文字のイメージの力は、それがフキダシのなかの活字とは違う水準の語りであり、異なった調子で響くものだということを、われわれに瞬時に理解させます。そのようにして、概念とイメージが共同して語るということがあるのではないでしょうか。あるいは、最近の少年マンガではしばしば(たとえば『バクマン。』で頻繁に用いられていたのを思いだしますが)、フキダシのなかに小さな絵がアイコンとして添えられていて、固有名詞の理解や、発話者の特定とその感情の理解などに役立っています。あのようなアイコンは、イメージとも概念ともつかない、「イメージ言語」を形成しているのではないでしょうか。
マンガにおける絵は、世界を描写しているという意味での図像・イメージなのだろうか、という問題もあると思います。往年のギャグマンガでは、過剰にずっこけて、たとえば空を飛んでいったり、紙面を突き破ったりする人物がよく描かれていたわけですが、あれなども実際に起こったことが描写されているというよりは、「激しくずっこけた」という概念として受けとられている面がある。あるいは、セリフがほとんど(ときにはまったく)無く、絵によって物語るマンガというのも、けして例外的なものではありません。マンガの絵は、むしろ積極的に概念を語っているように思うわけです。
もちろん、こうした問題について、森本先生の議論はすでに論じられているのだとも思います。参照されていたヴォルフガング・イーザーの「移動する視線」という概念は、われわれがマンガの絵をそのほかの絵と関係づけながら、ひとつの語りを認知していく場面と、たしかに深く結びつくものでした。あるいは、絵の描写において、マンガ家は一回的な「賭け」をしているのだとも言われました。そのとき、マンガの絵は世界を再現した単なるイメージ・似姿ではなくて、ひとつの概念の語りともなっているのでしょう。
したがって、ひょっとするとすでに森本先生が論じたことを重ねて聞くことになるのかもしれません。しかし、大筋の方向性としてはやはり、マンガにおけるイメージを概念と対比させたうえでの判断がなされていたと思うので、あらためてイメージが概念を語るような場面について、マンガにおける「イメージ言語」の可能性についてどのように考えられるか、ということを聞いてみたいと思います。
森本:非常に重要な問題で、挙げられた例はその通りだろうと思います。今いみじくも「イメージ言語」とおっしゃったんですけれども、イメージそのものからある出来事の表象が作られてくるということは、もちろんあると思います。当然、メディアによって出来事表象を作り上げていくメカニズムは違います。東村アキコさんの例を挙げましたけれど、涙袋みたいなものをちょこっと描くかどうか、そこに線を一本引くかどうかで、表情全体のニュアンスが変わってくる、と。全く同じ効果を言葉で出そうとしたら非常に難しいでしょう。ですが、私は、じゃあ言語にはそれはできないかっていうと、それも違うと思うんですね。言葉は言葉で、例えば副詞を一個付け足すとか助詞を変えたりとかという微妙な選択によって、文から喚起される印象が変わってくるわけです。メディアが持っているそれぞれの表現上の特性があって、それをフル活用しながら物語が作り出されている。イメージが物語を駆動してゆくという言い方をする場合、ただ何が起きているかをイメージが示してるというだけでなく、イメージの細部が直接的に様々なニュアンスを伝えているということがある。今回は「印象」という言葉で一括りにしてしまいましたが、いずれにしてもそういうところは確かに重要だと思います。ただ、マンガの場合について言いたかったのは、言葉とイメージの関係の深さです。吹き出しの中の言葉でも、吹き出し外の内語でも、それらをまったく消してしまって、あるいは前後のコマの中の言葉も全部取り払ってしまって絵だけ残した時に、そのイメージだけから喚起されるものっていうのが有意味に解釈されうるかというと、ちょっとそれは難しくなってくるケースが多々あると思うんですね。マンガというのは、言葉を読みながら絵を追っていってる、その両輪で動いているのではないでしょうか。そこの絡み合い方を、もっときちんと見ていかないといけないなと思うんですけど、それはまあ、私にとっても今後の課題です。さっきはそれを「いろんなタイプがある」というふうにごまかしちゃったんですが。一般論として、グルンステンさんは、あくまでイメージが主導すると『マンガのシステム』では言ってらっしゃいますが、そう言い切れるのかなっていう疑念は、私にはあります。でも、おっしゃる通り、イメージが物語を語るというのはその通りです。
中田:ありがとうございます。
森本:曖昧な返答で、申し訳ありません。
佐々木:今お話に出た、イメージと言語のそれぞれの語りの問題。これはきわめて大きなテーマで、簡単には論じられないことだとは思うのですが、さらに、前半のお話に出ていた、人物と世界という存在論的な問題。これも非常に大きな問題ですね。森本先生の論の特徴のひとつは、世界の共同存在的なとらえ方という点にあるようにも思うのですが、どちらも今後考えるべき射程の長いテーマだと思いますし、まずはいったん置いておいて、次のお二人にも話を聞いてみたいと思います。では、三浦さんお願いします。