去る2015年11月4日、学習院大学において研究フォーラム「マンガのナラトロジー ―マンガ研究における〈物語論(ナラトロジー)〉の意義と可能性」が開催された。当日は雨天であったが、会場には当初の座席数では不足が出るほどの来場者が訪れ、コメンテーターを務めた4名の若手マンガ研究者を中心に、活発な質疑を交わした。本レポートでは、各講演のテーマと議論の概要についてお届けしたい。
はじめに、学習院大学の夏目房之介教授が、「マンガ研究の転換期」と題した基調講演を行った。夏目氏の発表は、90年代に編み上げられた自らの「マンガ表現論」の成り立ちを振り返り、そこにおいて「物語」の水準が――夏目氏自身の言葉を借りれば――「棚上げ」されてきたことについて、きわめて率直に語るものであった。
手塚マンガに端を発した夏目氏の仕事は、手塚治虫の表現の革新性を、近代小説的に重層化された「物語」と、キャラクターに多彩な表情(や動作)をとらせることを可能にした描線に見る。両者の関係は、キャラクターの自意識=内面を媒介に相補的なものとして捉えられ、「物語」は不可視のレベルに、描線やコマは可視的なレベルに位置づけられる。その上で、夏目氏のマンガ表現論は、目に見えるものとしての描線とコマだけを扱うことを志向した。その背景には、マンガから社会反映的なメッセージを読みとろうとする、当時主流を占めたテーマ主義的な批評への不満もあったようだが、何よりも、「マンガに固有な表現様式」を明らかにすることを目指していた当時の夏目氏にとって、目に見えない(=メディアの差異を見いだしがたい)「物語」に注目することは、その目的にそぐわないものであったようだ。
こうして夏目氏が切り開いたマンガ表現論は、その後、氏が竹熊健太郎氏(編集者・マンガ原作者)や斎藤宣彦氏(マンガ研究者)らとともに手がけた『マンガの読み方』(1995、宝島社)に実を結び、現在のマンガ研究を基礎づける画期的な仕事となった。しかし同時に、こうした表現論の限界についても、夏目氏自身は誰よりも自覚的であったといい、一例としてフランスのマンガ研究者ティエリ・グルンステンの「関節理論」を参照する。グルンステンが指摘するように、それぞれのコマや見開きは、それ単独で理解されるわけではない。それらは「物語」のレベルで相互に関連付けて、つまり文脈のレベルで理解されるし、その解釈は物語外部の情報(そこにはたとえば、他の作品との関係や、読者共同体がもたらす影響なども含まれるだろう)をも参照しつつ行われるのだ。このような問題に関しての夏目氏自身の著作としては、たとえば『マンガ学への挑戦』(2004、NTT出版)などが挙げられるだろう。いずれにせよ、われわれの「読み」は、物語の内部・外部に位置する様々な要素が重層的に絡み合うさなかで遂行されているのである。夏目氏は、この複雑な関係を読み解くことが現在のマンガ論の課題であるという。マンガの「内部」を分析する視点から、マンガと「外部」との関係に目を向けることへ。現在のマンガ研究はこのような「転換期」にあたっているのだ。
基調講演に続いて、今回のフォーラムを企画し、当日は進行役を務めた佐々木果氏(マンガ研究者)から、森本浩一教授(東北大学)の紹介と本フォーラムの狙いについて簡単な説明が行われた。森本氏は文学のみならず、物語論に立脚して幅広く比較ジャンル的研究を行っている。今回の講演内容も、マンガにとどまらず、物語行為一般についての問題を扱う、極めてボリュームの大きなものであった。そのため、本レポートでは、その議論の中から、いくつかの重要な論点のみをお伝えすることを、あらかじめ断っておく。なお、講演に続いて、いずれも気鋭のマンガ研究者である中田健太郎、野田謙介、三浦和志、三輪健太朗の各氏がコメントと質疑を交わしている。その模様も別に掲載されているので、あわせてご覧いただきたい。
アリストテレス『詩学』を参照しつつ、森本氏は人間行為の「再現」こそが物語の本質である、と述べる。だが、もし、物語における「再現」が現実の単なる模倣(コピー)を意味するのだとすれば、それは現実に対して劣ったものだと考えざるを得なくなってしまう。再現が何らかの媒体を用いた表現である以上、「現実」の全体からすれば、それは必ず断片的になるからだ。
森本氏は、この、物語がもつ「再現」としての限界を認めたうえで、物語の価値は、与えられた限界=欠如をどのように乗り越えるか、という点にこそあると指摘し、次のように問いをたてる。われわれは、物語がもつ限界を認識していたとしても、時として物語内の人物が自分の目の前にいるかのような感覚をもつ。だとすれば、「再現」には、単なる模倣にとどまらない、物語行為に固有のメカニズムがあるのではないだろうか。森本氏はこの問題を検討するために、ポール・リクールが『時間と物語』で論じた二種類の物語=時間感覚を足がかりにする。
リクールは、現実の再現(=ミメーシス)である物語に、二つのタイプを設定する。一つは、現実についての語りである、「歴史」だ。日常会話や報道などの語りはこれに属する。そして、もう一つが「フィクション(の)物語」である。このような分類の背景には、二種類の時間把握が前提されている。「歴史」とは、唯一の時間軸の上に、出来事を時系列的に配列して作り上げられるものだ。そこでは時間は複数の「点」とそれを結ぶ「線」のようなイメージで構成されており、相互の時間・空間的矛盾は存在しない。このような時間を、リクールは「宇宙論的時間」と呼ぶ。他方、「フィクション(の)物語」はそのような秩序にしばられない。たとえば、おとぎ話の冒頭に付される「むかしむかし、あるところに」という言葉に象徴されるように、物語の時間は時系列的に厳密に配置されているわけではない。
森本氏の説くところによれば、リクールはこのような「フィクション(の)物語」が、「歴史物語によっては、未開拓で、 禁止されたまま」である「現象学的時間の資源」を開発する」と考えた。「現象学的時間」とは、単純な客観的時系列の表象では記述しつくせない、我々がまさに「今」経験している時間感覚である。このことを説明するために、森本氏はメロディーを例にとる。われわれにとって、ある音を聴くという体験は、常にその一つ前の音を保持し、同時に、一つ先の音を先取りしようとする構えのもとで経験される。(フッサールのいう「過去把持・未来予持」。)それは「点」ではなく「流れ」としてあるのだ。
このような時間感覚は、実際には相互に交錯しつつ物語の受け手に経験されることを断った上で、森本氏は、「現象学的時間」を物語経験の「現在」的なレベル、「宇宙論的時間」を「通時」的(時系列的)なレベルに位置付け、そのうちの「現在」的なレベルに軸足を置きながら、それぞれのレベルにおける物語内の人物/語り手に対する受け手の向き合い方――「自己同期」――の様相を分析してゆくことになる。それでは、「自己同期」とはなんだろうか。
物語は、他者を外側からだけでなく、内側からも想像的に表象する能力によって可能になる。これは、われわれが現実世界において、会話の中で第三者を表象し、その内面を想像する際にごく自然に発揮されているものだ。このような能力の根底には、「私」という特権的な存在を基盤として、焦点を当てられている「他者」――それは、私とともに「同一のこの世界を生きて何かを経験している」他者である――を、「私」と同様な存在として措定する作用が働いている。(この作用は、フッサールの用語では「対化」とよばれる)森本氏は、このような「対化」を「自己同期」と呼ぶ。
ところで、現実世界において「他者」は私とともに世界を構成する存在者であるが、物語世界は現実から分離された世界であるため、私と他者が共同的に存在するとはいえない。しかし、物語の「語り」は、受け手が「あたかもその世界に自分が存在するかのように想像すること」を促す。それを可能にするのが人物への自己同期だ。受け手は、自己同期を通じて受け手と他者が「同じ世界に共同で存在するという事態を想像的に樹立」する。それによって、自分もまたその人物と同じ世界で生きているという感覚が生まれるのだ。
このように、自己同期は「私が共にそこに存在する」物語世界を成立させるために不可欠な条件であり、常に既に背景的に遂行されている。ゆえにこれは、いわゆる「感情移入」より高次のレベルに位置付けられる。物語の中で、人物の外見や内面はさまざまな方法で描写される(そしてそれらは時にわれわれの感情移入を促す)が、その根本には受け手の自己同期を促すという目的があるのだ。
注意しておかなくてはならないのは、物語の描写が受け手にもたらす印象は、基本的には人物ではなく語り手への自己同期によってもたらされているという点である。物語は「私ではない誰か」の語りに、受け手が受動的に付き従うことで成立する行為である。したがって、受け手は、「私」でも物語内の人物でもない他者が語っているものとして物語を受け取ることになる。(小説の場合と違って、図像表現を用いるマンガには明示的な語り手の存在を見出しにくいのだが、森本氏は、マンガにおいては「コマ」が語り手として想定しうるのではないかと指摘している。それが物語を分節してみせているからだ。)たしかに、語りは描写を通じて受け手の中にある印象をもたらす。たとえば人物の悲しみが描写された場合、人物に自己同期する受け手の中にもある感情がわきおこる。しかしそれは、受け手が「虚構の人物が抱いているであろう感情」を想像しているわけではない。もちろん、印象を抱くことは、受け手が物語内の人物により一層深く自己同期してゆく契機となるのだが、その基盤には、あくまで受け手自身が直感した――それゆえに極めてプライベートなものでもあるのだが――「現実的な」時間感覚を伴った印象があるのだ。
このように、語り手への自己同期がもたらした時間性の上で、人物への自己同期は行われる。
その際、同時に重要になるのが、物語経験の中で受け手が行う「想像的補完」である。自己同期を通じて、受け手は物語世界についての理解を深めることに努めるのだが、その時、われわれは「目の前」の出来事(たとえば、いま語られている内面)を理解しようとするだけでなく、語られていないこと(たとえば、そこで内面を語られている人物の「客観的」な立ち位置など)にも想像をめぐらせるのだ。このことは、先述した歴史とフィクションというふたつの物語のタイプを比較することではっきりと確認できる。
たとえば、小説の冒頭に「長いこと私は早めに寝るようにしていた」という文が書かれているとする。この文章は、言語的なレベルにおいては、日記でそのように書かれた場合と同じ意味を持っている。しかし、「フィクション(の)物語」では、同時にそれは、「虚構の世界の中で、この人物が一定の就寝の習慣を持っているような仕方で生きているという事実」を表す。この世界では、ある一つの事実が語られることによって、はじめて世界のあり方が一つ決定される。「フィクション(の)物語」とはそのような仕方で成り立っているのだ。つまり、フィクション的な再現においては、「人物の行為と世界の現れとが直接的に繋がっている」のである。このようなメカニズムは、日記のような「歴史」にも当然想定されているのだが、「歴史」においては、「世界」は自明の前提であり、たとえ誰も観測していなかったとしても、その有り様はすみずみまであらかじめ決定されている。したがって、理解の焦点はあくまで記述された出来事そのものに絞られるのである。
このように、「フィクション(の)物語」においては人物の行為と世界の現れとが一体化しているのだが、そこで提示される描写は断片的なものでしかない。そこで、物語世界が時間的・空間的に連続しているという前提を受け入れている以上、受け手はそのような断片を常に想像的に補完することによって、物語世界を経験することになる。つまり、描かれていないことも含めて、人物の持続的な存在を感じ取ることが、物語を読むという経験の中心にはあるのだ。そして、このような「フィクション(の)物語」のあり方は、「世界内存在」としての人間のあり方を再現する上で非常に好都合なものだ。なぜなら、そこでは描かれる個々の出来事ではなく、世界の現れ方それ自体が、われわれの第一次的な「現実」に対応するからである。
物語経験の根本的なメカニズムである自己同期と、それを経て行われる想像的補完。これらを通じて、受け手は物語の人物、物語世界全体の存在を「現象学的時間」において感得できるのである。人物が「世界の中に存在する」こと――受け手の前に実存をもって立ち現れること――に物語のリアリティを見出す森本氏の問題設定は、その後の中田氏との質疑の中で明らかになるように、一般的な「リアリティ」の基準(それはたとえば、絵柄の写実性や、人物の内面といった個々の描写に対する判断であろう)とは質的に異なる次元にある。たとえ「写実的」でない一枚の絵であったとしても、その向こう側に「人物」と、それと結びついた世界が想定されるのであれば、物語を享受するという点で本質的な差異は見出し難いのである。
以上のように、森本氏の講演内容は、物語行為の目的・本質を極めて明確に定義した上で、それが実現される仕組みについて緻密に分析するものであった。本稿ではとりあげられなかったが、森本氏はさらに物語経験の通時的なレベルにも目を向けた上で、マンガと映画というそれぞれの表現形式において、「再現」としてのリアリティがどのようにして獲得されるのかを検討してゆく。ここからも明らかなように、森本氏の理論は既存のマンガ研究に直接コミットするというよりもむしろ、マンガと、映画など諸メディアの表現形式を比較検討するうえで示唆に富む道具立てを行うものであったといえるだろう。たとえば、マンガやアニメ、ライトノベルなどの「特質」を強調する中で繰り返し取り上げられてきた問題として、キャラクターのリアリティに関する一連の議論があるが、森本氏の発表はこのような問題に対しても新たな考察の切り口を与えてくれるのではないだろうか。
筆者は一介の学生にすぎない身ではあるが、筆者自身も含めて、マンガ研究に身を置く学生たちの多くは、その関心領域がメディアを越境して多分野に広がっていると感じる。その意味からも、夏目氏が基調講演の中で指摘したように、現在のマンガ研究には「マンガ」という表現領域の内部に留まらない方法論が求められているのではないだろうか。マンガという一つのメディウムの中にとどまるのではなく、一旦マンガの「外」に出て、それ以外の表現との比較を経由すること。言葉にすれば容易いが、実際には方法論の点で多くの困難を抱えるこの課題に対して、物語論(ナラトロジー)は一つの有効なアプローチになる可能性を秘めていると感じる。
(田原康夫)