【再録】「まんが史の基礎問題 ―ホガース、テプフェールから手塚治虫へ」序章(佐々木果)

felix

『まんが史の基礎問題 ―ホガース、テプフェールから手塚治虫へ』

序.ストーリーまんがの源流

紙の量について

 原稿用紙を一枚だけ渡された時、小説家はそこに何を書くだろうか。さほど多くない字数のことを考えるならば、小説ではなく、ちょっとしたエッセイか短い詩でも書くのが妥当だろう。フィクションを書いてもよいが、ショートショートが得意な小説家でもないかぎり、半端な小咄のような内容になってしまいかねない。少なくとも、かねてより構想をあたためていた長編小説を書くことは、全く適当でないだろう。そのあらすじさえ、書き切ることはできないかもしれない。本格的な小説を書きたいのだったら、一般的には少なくとも数十枚、できたら数百枚の規模で原稿用紙を使えることが望ましい。
 ならば、まんが家の場合はどうだろう。特に、小説と似たような物語内容を描くストーリーまんが家の場合はどうだろう。たった一枚の紙の上に、ストーリーまんがを書くことは困難だ。紙面を細かく分割してコマをたくさん作れば、それなりの展開を描くことはできるが、本格的なストーリーを、しかも面白く演出して描こうとするならば、たっぷりとしたページ数が必要になる。少なくとも、現代の日本のまんがを読み慣れた人間にとっては、それはあたりまえのことに感じられる。
 現在日本で出版されているまんがは、その多くが「ストーリーまんが」と呼ばれるものに分類される。厳密に分けようとすると境界線は実はあいまいではあるが、たとえば新聞に載っている政治まんがや4コマまんがなどに比べて、雑誌に掲載されたり単行本として出版されたりするまんがは、大量のコマとページ数を費やして物語内容が展開されるものが多く、それらを日常的な言葉づかいで「ストーリーまんが」と呼ぶことは、それなりに妥当なことといってよいだろう。
 「文章」の世界では、小説、エッセイ、ルポルタージュ、評論、論文、詩など、スタイルや内容によって分野が区別されており、これらを書く人間についても、必要とされる知識や能力が異なることが当然のことと受けとめられている。しかし「まんが」の世界では、それらを区別しないまま、単に「まんが」として一括して語られることが多い。少なくとも「まんが家」と言った場合、諷刺まんがを描く者、4コマまんがを描く者、エッセイまんがを描く者、長編のストーリーまんがを描く者、すべてがただ単に「まんが家」と呼ばれることが一般的であり、まんが自体を論じる場合も、この区別が明確ではないままに漠然と語られることが多い。まんが論は、文章の場合でいうならば、包括的な「文章論」なのか、それとも個別の分野のたとえば「小説論」のようなものなのか。
 両者は、もちろん厳密に分けて考えることはできないが、軸足がどちらにあるのかあいまいなままでは、さしあたり問題を検討していくことはできないだろう。
 ここでは、現在の我々が日常的になじんでいる「ストーリーまんが」に、ひとまず焦点を当ててみる。
 ストーリーまんがは、冒頭に述べたように、一般に多くのページを使って描かれる。文章の世界に、ある時「小説」という分野が出現したのと同様、まんがの世界にも「ストーリーまんが」が出現したと仮定するならば、それは歴史的にいつ、どこで起きたことなのだろうか。どのような経緯で出現したのだろうか。
 長いストーリーを描こうとしたから、多くのコマやページを必要としたのだろうか。それとも、描き手に多くのページ数が与えられたから、内容が長くなってしまったのだろうか。まんがの歴史は、印刷と出版の歴史でもある。まんが家に対して、編集者や出版者が多くの「紙」を与えなければ、まんが家は本格的にストーリーを描くことはできない。あるいは、まんが家が自分で多くの紙を用意して自ら印刷しなければ、ストーリーまんがが世に出ることはない。ストーリーまんがは小説と同様、読書という行為が必要とされる以上、展示という発表形態には向かない。出版されて多くの人が読めるようになってこその小説であり、ストーリーまんがである。そのためには印刷技術と、多くの紙が必要なのだ。
 ストーリーまんがについて考えるには、まず、そのような歴史が問われなければならない。まんがは、いかにして多くの「紙」を獲得したのか。

手塚治虫と赤本

 日本のストーリーまんが史上、最も重要なまんが家のひとりと考えられている手塚治虫は、昭和22(1947)年に出版された描き下ろし単行本『新寶島』(原作・構成/酒井七馬、作画/手塚治虫)によって、その名が広く知られるようになったといわれる。『新寶島』が当時の読者に与えた強い印象は、藤子不二雄などの証言などに残されており、日本のまんが史を考える上で、よく言及される作品である。特に、冒頭の自動車の疾走シーンは、藤子の証言にもあるように、多くの読者や論者の注目を集めてきた。

本文のページをめくって、僕は目のくらむような衝撃を感じた。
見開きの右ページの上に、“冒険の海”へという小見出しがあって、その下の一コマに、鳥打帽を小意気にかぶった少年がオープンスポーツカーを右から左へ走らせている。(中略)
こんな漫画見たことない。二ページ、ただ車が走っているだけ。それなのに何故こんなに興奮させられるのだろう。まるで僕自身、このスポーツカーに乗って、波止場へ向って疾走しているような生理的快感を憶える。
これは確かに紙に印刷された止った漫画なのに、この車はすごいスピードで走っているじゃないか。まるで映画を観ているみたい!!
そうだ、これは映画だ。紙に描かれた映画だ。いや! まてよ。やっぱりこれは映画じゃない。それじゃ、いったいこれはナンダ!?(藤子不二雄『二人で少年漫画ばかり描いてきた』毎日新聞社、1977年、19頁)

 このシーンについては、さまざまな人間によって、特に「映画」的な手法という観点から語られることが多い。実はここで藤子が述べているのは、映画的な受容体験についてであって、決して映画的な手法についてではない。この違いは十分注意されるべきであり、決定的な差でもあるのだが、その問題はひとまずおいておこう。とりあえず、このシーンが当時「二ページ、ただ車が走っているだけ。それなのに何故こんなに興奮させられるのだろう」と感じられる描き方であったなら、それを可能にしたのは、まず何よりも「紙」の多さである、というべきだろう。たっぷりとしたページ数があったからこそ、「二ページ、ただ車が走っているだけ」というような、ぜいたくな描き方が可能になったのだ。そのような描き方は、おそらく単行本描き下ろしという条件を抜きにしては考えられない。
たとえば夏目房之介は、手塚の『ジャングル大帝』を例に以下のように述べている。

 さて「漫画少年」連載当時、雑誌のマンガ連載は1回がせいぜい長くて6ページでした。手塚の構想にとっては少なすぎた。というのは、それまで手塚が描いていた赤本=単行本なら百何十ページありますから、その幅でコマ割りも構成もできる。比較的自由にページの展開を考えられる。何ページもアクションシーンを続けるとか、逆に地味なシーンを続けるのも可能なんです。それが、いきなり6ページ、せいぜい10何ページになる。すごく不自由な制約があった。それで『ジャングル大帝』も単行本にするときに描きかえたんです。(夏目房之介『手塚治虫の冒険』筑摩書房、1995年/小学館文庫、1998年、31頁)

 赤本という単行本描き下ろしの世界で広く活躍した後、大阪から東京に移ってきた手塚は、本格的に雑誌の仕事を開始する。そこで突き当たったのが、ページ数の問題だ。連載という形式は、最終的には作品全体の「紙」の量を増やしはするが、毎回ある程度の量で話を区切ってまとめる必要がある。現在のまんが雑誌と異なり、当時の雑誌の1話分のページ数はきわめて少ない。「別冊付録」という単行本描き下ろしに近い形式もあるものの、雑誌本体での掲載ページ数は非常に限られていた。だからその少ない「面積」の中で物語をできるだけ進行させて、一定の読みごたえある内容を実現しようとすると、演出や効果のために残された「面積」は、非常に限られたものになってしまう。
 夏目はこの『手塚治虫の冒険』の中で、『ジャングル大帝』の雑誌連載版と、描き直された単行本版との具体的な比較を行なっており、たとえば雑誌連載版の方は「手塚以前のマンガの手法」に近いと述べ、描き直された単行本版は「心理描写を、文章ではなくマンガで繊細に描けるようになった」などとして高く評価する。

手塚治虫は、描線とコマの問題をひじょうに高度なレベルにもっていって、表現しうる時間をすごく重層的で複雑な、落差の大きいものにしました。複雑で微細な表情を可能にする、いろんな描線とかマンガ的記号の体系づけ。コマ分節の高度化。この2つの表現様式の開拓が、世界的にみるとひじょうに特殊な世界を、日本の戦後マンガに与えたと考えられる。とくに内面的な、情緒的な表現において日本の戦後マンガは特異であるようにみえますが、その出発点はやはり手塚マンガにあったんではないと、僕には思えるんです。(同、38頁)

 日本の戦後のストーリーまんがの表現が高度な発達を遂げる出発点として、夏目は手塚作品をあげており、そのような表現が可能になった背景として、雑誌ではなく赤本という単行本描き下ろしの場があったことを述べている。
ページの量と表現の関係については、他にも指摘する者は多い。米沢嘉博は『新寶島』について次のように述べている。

この作品の成功によって、手塚治虫の名は広まり、売れる作家として、次々と想像力のあふれるままに作品を送り出していくことが可能になったし、その中でテクニックやスタイルを完成させていくことになるのだ。戦前の雑誌マンガとの大きな違いは「量」(ページ数)であり、そのことがマンガの力ともなっていく。マンガは、ここに始まったのである。(米沢嘉博・構成『別冊太陽 子どもの昭和史 少年マンガの世界II 昭和20年~35年』平凡社、1996年、11頁)

 戦前と戦後の大きな違いとして、何よりもページの「量」を指摘している。「マンガは、ここに始まったのである」という一文は決して正確な表現とはいいがたいだろうが、おそらく、後に週刊誌時代を迎えて長期連載作品が増え、膨大な量の単行本が発売される「マンガ時代」がやってくることを視野に入れた、象徴的な言い方であるのだろう。手塚以降の戦後まんがにとって、ページの「量」が力であったという見方は、妥当な指摘であるように思われる。
 宮本大人は、昭和13(1938)年に行なわれた児童向け出版物の統制問題について述べる中で、戦前のまんがの出版状況について以下のように書いている。

雑誌の場合、連載の物語マンガでも一回4ページから8ページというのが通常である。ほぼすべての雑誌が月刊だから、月ごとに細切れにされる都合上、基本的に一話完結のエピソードを積み重ねる形になる。したがって、少ないページの中にそれなりのお話を詰め込むことになり、いきおい大きなコマや変則的なコマの形を頻繁に使うといったことは抑えざるを得ない。
これに対して赤本の場合、ページ数にも余裕があり、かつ主力はあくまでも小説であった雑誌と違い、マンガだけで読者の購買意欲をそそることが求められるから、むしろ読者の目を引きつける大胆な表現、大きなコマの使用といったことがセールスポイントとなった。これは物語を構成する力の弱い二流の描き手の多い赤本マンガ家が、奇抜な表現でそうした弱点をカバーすることを許すことにもなる。つまり、表現の実験とその繰り返しによる新しい表現法の洗練といった点については、有名作家による雑誌マンガよりも無名作家による赤本マンガの方が重要な役割を果たした可能性が考えられるのである。(宮本大人「マンガと乗り物 ~「新宝島」とそれ以前~」霜月たかなか編『誕生!手塚治虫 マンガの神様を育てたバックグラウンド』朝日ソノラマ、1998年、94頁)

 戦前のストーリーまんがは、1930年代に主に児童向けの分野で表現を拡張させていたが、戦時体制下での規制により内容的にも量的にも厳しく制限され、自由な表現の追求が困難な時代が長かったことを、宮本は指摘している。そして、戦後になって描かれた『新寶島』の表現が新しいと受けとめられたことには、そのような戦時中の停滞した状況が背景として関わっている可能性を述べている。
 ページ数と表現の問題は、手塚ひとりの問題ではない。戦前において、ストーリーまんがの描き下ろし単行本はすでに盛んに出版されており、宮本の指摘するように、まんがの表現の拡張にそれなりの役割を果たしていたと考えられる。単行本を描き下ろすことで自分の表現スタイルを作り上げていった手塚同様、戦前のまんが家たちも、単行本という場で多くの試みを行なっている。それは、戦時の出版規制でいったん途絶えてしまうが、十分なページの「量」という場は、すでに戦前に成立していたのだ。

ストーリーとコマ

 まんが家に一度に多くのページを使うことを許し、思い切った表現を可能にした「単行本描き下ろし」という場は、そもそもいつから存在するのか。
 単純に「単行本描き下ろし」ということであれば、たとえば江戸時代の多くの草双紙がそれに該当する。それらと、現代のストーリーまんがの間に、歴史のつながりを見ることは可能であるが、異なっている面も非常に多い。江戸時代の黄表紙を例にあげるならば、まんがと似た要素をさまざまに発見することは可能であるが、現代の我々の実感からすると、まんがというより絵本に近いとも思われる。その理由はおそらく、コマ割りされているかどうか、あるいはせりふがフキダシの中に描かれているかどうか、絵柄が「まんが風」であるかどうか、などの点が影響しているのだろう。まんがと絵本は、どこがちがうのか、これを厳密に語ることは不可能だろうが、2012年現在の日本の我々の通念に照らして言うならば、「コマ割り」は特に注目すべき点であるように思われる。仮に、コマ割りのないまんがの単行本と、コマ割りされた絵本を想定するならば、我々にとってその区別はほとんど消え去ってしまいかねない。
 では、さしあたりコマ割りという形式に注目した場合、それが日本に出現するのはいつからなのか。
 現在確認できるかぎりでは、本格的にコマ割りされた「単行本描き下ろし」は、明治の「ポンチ本」にまでさかのぼることができる(図2・3)。明治30年以降に盛んに出版された「ポンチ本」は、8~24ページ程度の描き下ろし単行本であり、すでに「コマ割りストーリーまんが」といってよいスタイルのものも見られる。現在のまんがに慣れた我々の目から見ると、決して十分な「量」のページとはいえないものの、単行本用にまんがを描き下ろすという手法は、この時代にすでに始まっている。江戸の草双紙の流れを汲みながら、近代的なまんが単行本へと移行していく過渡的な出版物として、歴史上注目すべき存在だ。
 ただしコマ割りという形式自体は、先に新聞や雑誌のポンチ絵で用いられており、ここで始まったことではない。清水勲は、日本人が描いた最初のコマ割りまんがとして、明治14(1881)年に雑誌『驥尾団子』に掲載された本多錦吉郎『藪をつついて大蛇を出せし図』(図4)をあげている。また同時に、それ以前にすでに外国人によるコマ割りまんがが日本国内で発表されていることも、清水は指摘する。

これは六コマ漫画だが、おそらくイギリスの『パンチ』の漫画の影響でそうしたスタイルを生み出したのであろう。文久二年(一八六二)に横浜居留地でC・ワーグマンが創刊した『ジャパン・パンチ』には、明治初年頃からコマ漫画が描かれるようになるが、本多の場合は、主として『パンチ』の漫画を研究していたので『ジャパン・パンチ』からの影響ではないと思われる。明治二十年代になると『幼年雑誌』(明治二十四年創刊、博文館)などの子供向け雑誌に西欧の子供向けコマ漫画が紹介されるようになる。(清水勲『漫画の歴史』岩波書店、1991、107頁)

 それ以前の日本の美術表現において、コマ構成の形式のものがなかったわけではない。しかし、現代のまんがにつながるような、何かを物語るためにコマを並べる手法は、海外から影響を受けることで事実上広まったものと考えられる。明治のポンチ本は、江戸以来の出版文化が、海外のスタイルを取り込んで生み出したもの、と考えてよいだろう。
 ならばその当時、海外では実際にどのようなスタイルのコマ割りまんがが発表されていたのか。それを検討しなければならない。
 ストーリーまんがの歴史を追うかぎり、日本国内の作品を見るだけでは無理がある。海外のまんがの歴史との関係に目を向ける必要がある。
 明治期に日本に輸入され、広く影響を与えたまんがは、多くはヨーロッパとアメリカのものであると思われる。日本で「ポンチ本」が出始める明治30年頃(1897年)以前に、各国ではすでにストーリーまんがと見なせるような単行本が出版されている。
 アメリカでは、国内で最初に描かれたストーリーまんがの単行本は、1849年の『Journey to the Gold Diggins(金鉱探しの旅)』(Jeremiah Saddlebags作、J.A.& D.F.Read画・図5)であるといわれており、63ページの描き下ろし作品だった(新聞や雑誌などに連載されたコマ割りまんが作品が単行本化される時代が来るのは、さらに数十年後のことである)。
国外で描かれた作品の出版はさらに古く、1842年には『The Adventures of Mr.Obadiah Oldbuck(オバディア・オールドバック氏の冒険)』(図6)が出ている。これはイギリスで出版された本の海賊版としてアメリカで出たもので、2~3段組で40ページの作品だ。
 元になったイギリスの本(1段84ページ)は1841年に同じタイトルで出ており、これがイギリスで出版された最初のストーリーまんがの単行本であると考えられている(図7)。ただしこれも、フランスで出版された本の海賊版であり、元になった本は、当時パリで諷刺新聞『シャリヴァリ』などを出していたオーベール商会が1839年に刊行した『Les amours de M.Vieux Bois(ヴィユ・ボワ氏の恋愛)』(図8)である。
 オーベールはすでに1837年に『Histoire de M.Jabot(ジャボ氏物語)』という48ページ(後に52ページに改訂)の本も出しており、こちらがフランスで出版された最初のストーリーまんがの単行本であると考えられている。しかしオーベールのどらちの本も、実はスイスで出た本の海賊版であり、オリジナルはジュネーヴで出版されたRodolphe Topffer(ロドルフ・テプフェール)作『Histoire de M.Jabot(ジャボ氏物語)』(1835年/52ページ)と『Les amours de M.Vieux Bois(ヴィユ・ボワ氏の恋愛)』(1837年/84ページ・図9)である。どちらも単行本描き下ろし作品だった。
 ストーリーまんがの単行本の歴史は、少なくとも1830~40年代のヨーロッパとアメリカにまでさかのぼることができる。そして、それらの端緒となったのは、どれもロドルフ・テプフェールという人物の描き下ろし作品である。それが海賊版という形で、玉突き現象のように各地に広まったのだ。

コマ割りまんがの父・テプフェール

 ロドルフ・テプフェールは、「コマ割りまんがの父」として知られる人物である。たとえば、アメリカのコミック・ストリップ史の研究で知られるデイヴィド・カンズルは、テプフェールに関する研究書を『Father of Comic Strip: Rodolphe Topffer(コマ割りまんがの父:ロドルフ・テプフェール)』というタイトルで出版している。またフランスのバンド・デシネを研究しているブノワ・ペータースとティエリ・グルンステンは、やはりテプフェールに関する研究書として『Topffer, l’invention de la bande dessinee(テプフェール、バンド・デシネの発明)』を出版している。彼らはテプフェールをコミック・ストリップの父であり、バンド・デシネの発明者であると考えている。
 「コミック・ストリップ」と「バンド・デシネ」という語をどのように日本語訳するかは論議があるが、ここではひとまず「コマ割りまんが」ということばで考えてみる。「ストリップ」も「バンド」も「帯」を意味しており、元来はコマが並んだ帯状の形式を指している。新聞の1段分の横長の形がイメージされていると思われ、20世紀以降に使われるようになった用語だ。テプフェールは、「コマ割りまんが」という形式で本格的な物語を描き、その後のまんが表現に大きな影響を与えた点で、多くの研究者から評価されている。
 我々はここまで、「ストーリーまんがの単行本」という観点で歴史を追ってきた。しかし、テプフェールは「単行本」という点だけではなく、そもそもコマ割り形式を用いて本格的な物語を描いた先駆者として歴史的に評価を受けている。
つまり、近代的な「コマ割りまんが」が本格的に始まろうとしたとき、それが掲載された舞台は雑誌や新聞ではなく、まとまったページ数の描き下ろし単行本だったということだ。
 我々はコマ割りまんがの歴史を考えるとき、1コマのまんがが、2コマや3コマに増え、やがて4コマ、8コマと増え、徐々に発達していった、というイメージでとらえがちである。しかし、仮にテプフェールを重要な基点と考えるならば、むしろ逆の流れが見えてくる。それは、「単行本描き下ろし」という、ふんだんにページを使えるスタイルにおいてこそ、近代的なコマ割りまんがが本格的に始まり、やがてその手法が短い作品にも応用されていった、という見方だ。
 あえて極論していうならば、4コマまんがが成長して、やがて長編になったのではない。まず一挙に長編まんがが描かれて、その手法を応用することで、現代的な4コマまんが表現も可能になった、ということだ。
 もちろん、このような断定のしかたは粗雑でかなりの飛躍がある。今のところ想像の域を出ない。だが、「単行本描き下ろし」という出版形態は、手塚治虫の例に見られたように表現や技法を拡張させる力になったのみならず、そもそもコマ割りまんがという形式を本格的に成立させる原動力でもあったのではないか、という歴史的な問いは、十分検討に値するだろう。
 テプフェールの作品には、「紙」の量がなにか決定的な形で関わっている。
 しかし、話を急ぎすぎてはいけない。「コマ割り」と「ストーリー」が、紙の上で交錯してきた歴史。ひとまず、それを広く検討した上で、その中にテプフェールを位置づけ直す必要があるだろう。

コマ割りまんがはどこから来たか

 そもそも、テプフェール以前には、コマ割りまんが表現は存在しなかったのだろうか。
 コマ割り形式で物語を表現することは、古今東西、テプフェール以前にも広く行なわれている。
 たとえば18世紀のイギリスの諷刺版画を見るならば、そこには多くのコマ割りまんが風の形式を見ることができる。見方によっては、それらをバンド・デシネやコミック・ストリップと評価することも可能だろう。デイヴィド・カンズルは、『History of the Comic Strip Volume I: The Early Comic Strip(コミック・ストリップの歴史・第1巻「初期のコミック・ストリップ」』の中で、ヨーロッパでの刊行物を中心に15世紀以降の「コマ割りまんが」的な表現例を数多く紹介している。それらを現在の我々が「コマ割りまんが」と評価することも決して不可能ではない。
 「コマの連続」という表現形式自体は古くから多くの例があるため、そこに単純に注目するだけでは、「まんが史」としてはなかなか問題の焦点を結ばない。そもそも「まんが」とは何であるかがはっきりしないと、個々の事例が「分割された挿絵のついたテキスト」なのか、「コマ割りまんが」なのか、決めるのは難しい。
 「まんが」という語の意味はきわめて広く、漠然としている。だから、そのとらえ方次第で、歴史の記述はがらりと変わってしまうのだ。
 とするならば、ここで我々にまず必要なことは、何が「まんが」であるかをきちんと定義して、それに形式的に合致する過去の事例を調査・検討することだろうか。そうではない。むしろ、「意味がきわめて広く、漠然としている」ような現実のありさまを、そのまま引き受けて検討することが必要だろう。なにしろ、それが「まんが」なのだから。
 まんがは、定義しうる形式や概念ではなく、ある歴史的事実である。規約によって成立したものではなく、たまたまの成り行きで生じた「出来事」にすぎない。当然、「まんが」という語によってすくい取られる現実の様相は、時代や地域で大きく異なる。日本の「まんが」も、現在と五十年前と百年前ではその意味は大きく異なる。我々は、まんがの同一性ではなく、多様性や変化、拡散を歴史に見る必要がある。
 とはいえ、一方で我々はなんらかの史観を持たないと、歴史を記述することもできない。ある限られた角度からしか歴史は記述できない以上、なんらかの問題設定をする必要がある。
 「コマ割り」と「ストーリー」。ここではこの2つを手がかりに、ひとまず歴史を根本的に見直すところから始めることにする。

初出:佐々木果『まんが史の基礎問題 ホガース、テプフェールから手塚治虫へ』オフィスヘリア(2012年)p.4~10(図版は略)