渡来文化としてのマンガ, 特集, 記事, 論考
日本現代マンガの百年前の起源:輸入・翻訳から国産へ
日本漫画史を扱う著書や記事を読むと、「漫画・マンガ・まんが」という、表記が変わっても永久不変の芯をもつ伝統が数百年(あるいはそれ以上)前から現在まで代々受け継がれてきている印象を受けやすい。しかしそういった主張にもかかわらず、今日「マンガ・コミック」として描かれたり読まれたりする物語形式の歴史はさほど長くない。しかも、その現代マンガの歴史は海外に始まる。
「漫画・マンガ・まんが」とはそもそも何であるか。18世紀後半まで遡る歴史のある「漫画」という語はその歴史の中で様々な意味を持っていた。だが、「漫画」が意味していた物を全て「まんが」と呼んでもその様々な物の間に一貫した連鎖があるわけではあるまい。我々が今日「まんが」と呼ぶそれは、まんが史の一部として扱われがちな絵巻物やスケッチ、絵ばなし、諷刺画等とは違う物なのではないだろうか。今日「まんが」という言葉を聞くと殆どの人にとって一番先に思い浮かぶのが、複数のコマの中でキャラクターが動いたり話したりして、自ら物語を織りなすような物だと言っていい。このようなマンガを以下「現代マンガ」若しくは「視聴覚マンガ」とするが、登場人物がページ(あるいは画面)において行動や対話できるその現代・視聴覚マンガという物語媒体の歴史は、「まんが」という言葉の歴史より100年くらい短く、僅か120年程度に過ぎない。
以上では、動きと音声(「動いたり話したり」)を強調しているが、動線や吹き出しのないものを「まんが」の範囲から除外するつもりはない。不可欠なのは、動きと音声の表現そのものではなく、寧ろその可能性である。現代まんがを絶対的に定義するというより、その「歴史的特異性」を突き詰めたいのだ。「歴史的特異性」というのは「類似している物とどう違うか、そしてその違い(特異性)がいつ始まり、どこから来たか」という問いである。それを問わなければ、現代まんがの歴史的起源が究明できないからである。例えば、「まんが=絵と文字の組み合わせ」や「まんが=簡略化されたデッサン」などという漠然とした分析では具体的な歴史的現象を特定することが極めて困難だ。なぜかというと、「絵と文字の組み合わせ」は、世界中、人類史中に点々と存在しており、その全部を恣意的に「まんが」と括っても、それぞれの作品同士の間に実際に何らかの繋がりがあるとは限らない。一方、「絵の中で動きと音響が表現できるようになり、語り手がなくても読者に完全に理解できる物語を描けるようになった」というのが比較的一貫した歴史的過程であったので、その起源と進展を辿ることができる。
キャラクターを紙に描いて、吹き出しをつけて会話させるのが我々には当たり前のように思えるが、実は当たり前どころか、19世紀後半までは想像さえできないことであったようだ。聞き手の場所に存在しない音源が発生した音響を聞き手に再生するという概念と経験が人になかったためだ(楽譜や言説記録などは無論あったものの、これは発生された音響そのものを再生するものではなかった)。風船のような形と文字を絵の中に入れることは19世紀後半以前にもあったが、それは現在の吹き出しとオノマトペとは根本的に異なり、決して音響の再生のつもりでなされた工夫ではない(詳しくはティエリー・スモルデレン、『The Origins of Comics』を参照)。19世紀後半における録音技術の普及につれて、人類が誕生して初めて人が「発話者自身がいないのにその発話が聞こえる」という前代未聞で極度に不思議な経験をするまでは、絵に入れた文字を音声として理解することが不可能であった。
19世紀にはその他にも、音声よりも早い時点から、撮影技術の影響で動きが描写され始め、広義のまんが作品(絵物語、諷刺画などを含む)がスピード線などの導入で動的になっていく。ただし、「技術の発展がマンガの発展を起こした」という容易な因果関係というより、啓蒙思想の一部として「見聞覚知」の理解が「人間の五感が認識するのが真理そのものである」から、「認識されるのが神経の伝達する刺激にすぎない」へ転化したのが技術と芸術の両方に影響を与えたといったほうが相応しい(詳しくはジョナサン・クレーリー、『観察者の系譜』とジョナサン・スターン、『聞こえる過去』を参照)。動きや音を再生するには、実物を再現する必要はなく、観衆・聴衆に実物と同じ刺激を感じさせる(撮影と録音の場合、実物と同様の光線や音波を再現する)だけで済むという発想が技術史において撮影と録音を可能にしたわけである。芸術においてはこの発想がより幅広く適用されていく。例えば、1890年ごろに、痛みを表す星印がまんが作品に登場しはじめる。これは明らかに技術が直接与えた影響によるものというより、まんが家が音響や動きと同様に、「実物を再現する必要がなく、見聞覚知の情報を(目に見える形にして)伝達するだけで充分」という発想を痛覚に当てはめたのである。
1890年代のアメリカは蓄音機に手が届く家庭が急激に増えてきた結果、前述している「前代未聞」の「話者がいないのにその言葉が聞こえる」経験をネタにする数コマ漫画が登場し、「人が音声を聞いてその源泉がその場にいる人間だと勘違いする」というのが人気のギャグパターンとなる。早くも1890年の米国漫画雑誌『Life』に同類のもの(図1)が載っているが1896年10月25日『ニューヨーク・ジャーナル』掲載の「イエロー・キッドと新しい蓄音機」というR. F.アウトコールト作の漫画(図2)から蓄音機をネタにする漫画が急増する。
「イエロー・キッドと新しい蓄音機」の最後のコマにおいて音声を再現するのに吹き出しが使われているからか、イエロー・キッドを現代まんがの原点とする説が多いが、アウトコールトも他のまんが家も、すぐに現代マンガと同様に登場人物が自由に対話するものを描こうとしない。コマ内の音声の再現は1899年までは、人が音声の発生源を間違えたりする、蓄音機やその代理として機能する鸚鵡が出演するギャグに限って使用されるままだ(例えば図3)。
吹き出しを使って登場人物に会話をさせるということがいかに当たり前でないことだったのかがこの三年という間隔から一目瞭然だ(当たり前なことには三年かからない)。それでも1897年から「音声の発生源を間違える」ギャグを徐々に発展させていくまんが家が一人いた。1899年8月27日にルードルフ・ダークスがついに「カッツェンジャマー・キッズがママに冗談を言おうとする」題の六コマ漫画の中で、まんが史において初めて複数のコマに渡って、登場人物に音声(吹き出し)の内容が明らかに聞こえているように会話をさせる(図4)。即ちこの六コマ漫画が世界中の現代まんがの原点であると言っても過言ではない(詳しくは拙著、『The Creation of the Comic Strip as an Audiovisual Stage in the New York Journal 1896-1900』を参照)。
ダークスでさえ暫くは本来の、絵物語のような、語り手がストーリーを説明したり、会話をコマの外に書いたりするまんが形態も、音声も文字も全くない「無声漫画」の形態もまだ利用し続けるが、1900年以降は視聴覚マンガばかりを用いるようになる。ダークスと同様『ニューヨーク・ジャーナル』紙にまんがを掲載していたフレッド・オッパーも1900年にダークスの「カッツェンジャマー・キッズ」流の現代マンガ形式を使う「ハッピー・フーリガン」を制作する(図5)。「カッツェンジャマー・キッズ」と「ハッピー・フーリガン」がそれぞれ爆発的な人気を得て、アメリカにおいて視聴覚マンガの形式を急激に普及させていく。
一方、今日マンガ業界が世界一の規模を誇る日本においては視聴覚マンガは1923年まで根付かない。アメリカのマンガにかなり詳しい、『時事新報』で1890年から(無音の)アメリカ式コマ漫画を日本で普及させるのに貢献した今泉一瓢(いっぴょう)が1899年に病気のため執筆をやめる。その後継者となる北澤楽天も、早くも1902年から断片的に視聴覚マンガを描き(例えば図6)、1907年にアウトコールトのまんがを模倣したり、1908年にジミー・スウィンナトンの視聴覚マンガ「ミスター・ジャック」の一話を『東京パック』に翻訳したりするが、視聴覚マンガを連載はしない。1915年には楽天の弟子、下川凹天が視聴覚的と見なせるマンガを『東京パック』に連載するが、長くは続かない。日本におけるコマまんがの殆どが相変らず無音のままであった。
日本でまんがが視聴覚的になった(すなわち、現代マンガの形態が根付いた)のが1923年であった。その年には三つの重大な人気まんがが掲載され始めた――樺島勝一と織田信恒(小星)の「正チャンの冒険」、ジョージ・マクマナスの「親爺教育」と麻生豊の「呑気な父さん」である。
日本まんが史学では、1923年1月25日から連載される「正チャンの冒険」(図7)が日本まんがに吹き出しを定着させた等という主張がよく見かけるが、4月1日からマクマナスの「親爺教育」(図8)が連載されるまでは他に定期的に吹き出しで登場人物に対話をさせるマンガは皆無である。しかも「正チャンの冒険」はダークスが完成させた現代マンガ原型とは根本的に異なる。何故なら登場人物が自由に行動してゼロからストーリーを織り成す視聴覚的形態に対して、「正チャンの冒険」の一話一話はまず語り手がストーリーを語り、それが絵によって描写されるのである。コマの外側に書いてあるその語り手の所謂「説明文」を読まなければストーリーが充分に理解できないエピソードが少なくないだけでなく、コマによっては絵が全くなく、説明文で埋められているものさえ存在する(図9)。「正チャンの冒険」の作者である樺島と織田が自ら吹き出しを思いついたわけでもない。当時イギリスで流行っていた、同様な形式のまんが「ピップ、スクィークとウィルフレド」に倣ったものだった。「ピップ、スクィークとウィルフレド」も完全には視聴覚マンガでないが、その吹き出しもダークスとオッパーのまんがに由来しているに違いない。
樺島と織田に「正チャンの冒険」を書かせたのと、マクマナスの「Bringing Up Father」を「親爺教育」として日本へ輸入したのは実は同一人物だった。日本初のタブロイド新聞であった『アサヒグラフ』の編集長、鈴木文史郎である。鈴木は、長年英語で読んでいた「Bringing Up Father」を『アサヒグラフ』に連載することによって日本まんが史に最大の変化を齎したと言っても過言ではない。アメリカにおける最初の視聴覚マンガ「カッツェンジャマー・キッズ」や「ハッピー・フーリガン」と同様に、世界中に人気であった「親爺教育」は日本において爆発的に有名になる。単行本も二冊刊行され、一時は『東京朝日新聞』と『大阪朝日新聞』、『全関西婦人連合会』、『ジャパン・タイムズ』にも連載されており、『アサヒグラフ』には1940年7月31日まで載っていた(関東大震災直後だけは2か月半休載)。従って戦前日本まんが史上連載期間が最長のマンガである(余談だが、この事実を述べる日本まんが史の著書が皆無同然であることから、日本まんが史学にいかにナショナリズム染みた要素が混ざっているかが覗われる)。
「親爺教育」が誇る17年以上の連載期間が、2年半程度の「正チャンの冒険」のそれを遥かに上回り、蓄音機や映画館で同様な視聴覚的娯楽を楽しみ始めていた当時の日本人新聞読者にとって視聴覚マンガがどれほど人気であったかを示している。『アサヒグラフ』が読者の需要に関係なく連載したわけでもない。1935年8月14日、21日には読者に連載継続の賛否をアンケートするため、ハガキでの投票を募っている。9月4日に結果(図10)が発表されるが、約7千3百人が「続ける」、約2千9百人が「続けない」とのことで、既に10年連載されていてもまだ多くの読者に愛読されていたわけである。
戦前日本における「親爺教育」の圧倒的な人気を裏付けるのは連載期間の長さだけではない。1920年代の雑誌・新聞広告にはマンガキャラクターが滅多に用いられないが、「親爺教育」の主人公達ジグスとマギーが登場する広告は20種類以上に上る(ひとつの意匠の広告が何度も掲載される回数を合計すると出演回数はさらに多くなる)(例えば図11、図12)。しかも、ジグス・マギー出演の広告は朝日系の新聞に限って掲載されているわけではなく、「親爺教育」自体を連載していない他新聞社の物にも載っている。つまりジグスとマギーが国民的に知られている存在であったようだ。
その人気に促されて様々な新聞が競って海外(主に米国)の視聴覚マンガを、「フィーチャー・シンジケート」という、まんがやコラムなどを販売する会社から正式に権利を購入したり無法で複写したりして連載し出し、視聴覚マンガブームが発生する。日本まんが史学書で「親爺教育」の存在に言及する記載がある場合には、海外から輸入された他の「外国漫画」を「親爺教育ほどの評判にはならなかった」等と日本まんが史から排斥する傾向があるにせよ、戦前日本における最長の連載期間を誇ることと、主人公達ジグスとマギーの国民的な人気からして「親爺教育」の評判が抜群であり同じレベルの評判を得たと言えるまんがが、国産の物を含めて極めて少ないので、「親爺教育ほどの評判にはならなかった」としても、日本まんが史において重要な役割を果たしていないとは決して言えない。例えば、「親爺教育」が『アサヒグラフ』に登場した直後1923年4月16日~1926年6月8日『国民新聞』に連載されたスウィンナトン作「リトル・ジミー」(図13)の連載期間も「正チャンの冒険」のそれを上回っているのみならず、連載途中から「リトル・ジミー」の直下に特別な広告スペースが設けられるのでそれなりの人気があったはずである。「リトル・ジミー」の日曜版も1925年1月号~1926年3月号、大衆雑誌『キング』に連載される。
今は忘却の彼方となったが、同じく1920年代に海外から輸入されて日本の新聞や雑誌に載った視聴覚的マンガが数多くある。例えば、「おしゃれのチリー」(『中外商業新報』、1924年10月2日~1926年12月19日、図14)や「グータロ君と愛馬」(『大阪中外新報』、1924年12月5日~1925年10月19日、図15)、「マットとジェフ」(『大阪朝日新聞』、1923年11月14日~1925年7月17日、図16。『全関西婦人連合会』、1925年12月号~1928年3月号)、「子煩悩」(『アサヒグラフ』、1924年1月2日~1925年9月23日、図17。『中央新聞』、1925年10月22日~1926年11月18日)、「Polly and Her Pals」(邦題無し)(『東京日日新聞』、1923年7月1日~1923年8月19日、図18)、「ツーツとキャスパー」(『東京中外商業新報』、1923年7月15日~1923年8月26日。雑誌『婦女界』、1924年2月号~1925年1月号、図19)、『The Gumps』(邦題無し、台詞も英語のまま)(『Japan Times』1923年12月~1928年7月、図20)等が挙げられる。
上述のオッパー作の「ハッピー・フーリガン」も1925年1月11日~1930年1月26日、『時事新報』のまんが編集者を務めている北沢楽天によって同紙の日曜付録『時事漫画』に連載される(図21)。その5年間の連載期間は1920年代の日本まんがの中、「親爺教育」に次いでもっとも長いくらいである(数え方によっては同紙連載の長崎抜天の「ソコヌケドンチャン」のほうが長い)。ダークスの「カッツェンジャマー・キッズ」も、「船長サントイタズラッ児」という邦題で1929年に『小学生全集』の第87巻に掲載されたので、1899年、1900年に完成した最初の二つの視聴覚マンガを両方、1920年代の日本人が日本語で読んでいたわけである。
1920年代末、1930年代に入ると、日本における外国製の視聴覚マンガの数が少なくなっていくが、消えるわけではない。1930年1月26日には「ハッピー・フーリガン」と1926年6月6日から連載されていたもう一つのオッパー作品「騾馬の名はメンドウと呼ぶ」が連載を終えても、1930年2月2日からはオット・メスマーの「おしゃべりポリイ」と「黒猫フェリックス」(図22)がそれに代わる(それぞれ1932年2月28日と1932年12月31日まで)。「フェリックス」は以前、雑誌『蜂雀』の1929年5月号と6月号にも載っており、「ポリイ」は後に『幼年倶楽部』の1936年6月号にも載り、どちらも『新青年』の1934年4月号にも掲載される。
他にも短期間連載される物が点在するが、1928年9月5日~1940年10月16日『アサヒグラフ』に連載されるスウェーデン出身のオスカー・ヤコブソンによるマンガ「アダムソン」をその例外として特筆すべきである(図23)。「アダムソン」は殆どのエピソードが無音なので「視聴覚的」と多少呼び難いが、「正チャンの冒険」のような絵ばなしと違って、語り手(説明文)がなくても登場人物の行動(そしてまれに言葉)を見るだけでストーリーが楽しめるし、登場人物が発声するエピソードもあるので、その可能性が常にあることを考える以上「アダムソン」も現代マンガと言える。1920年代、1930年代合わせての連載期間が戦前日本まんがの中で「親爺教育」に次いで最長であるだけでなく、「親爺教育」よりも遅くまで連載が続いた外国マンガと成り得たのは恐らく、言葉が少なく翻訳のせいでストーリーやオチが解らなくなってしまう危険性が一番低い物であった為なのかもしれない。『アサヒグラフ』以外にも、「アダムソン」を載せた刊行物が五つに上る。
1920年代末以降、外国マンガを連載する新聞が少なくなっていくのに対し、外国マンガを載せる雑誌は増える。『日の出』や『主婦之友』も挙げられるが、外国マンガの数が最多なのが海外の推理短編小説の翻訳で有名な『新青年』と、『月刊マンガ・マン』という、欧米現代マンガの熱狂的なファンによって創刊されたマンガ雑誌であった。『新青年』のほうはマンガを連載することはなかったが、1927年~1939年の間、極めて幅広い現代マンガのエピソードを掲載している。特筆すべきものは戦後最初に美術として評価され始めた現代マンガの一つ、ジョージ・ヘリマンの「クレイジー・キャット」(1930年6月、1931年4月・5月、1934年12月、図24)や、アレックス・レイモンドの「劇画」めいた「シークレット・エージェントX9」(1937年6月、48ページ分)、E.C.シーガーの、ポパイで有名な「シンブル・シアター」(1934年4月)、とフロイド・ゴットフレッドソンが描いていた「ミッキー・マウス」のマンガ版(1931年4月、1932年5月、1932年9月)などである。
1930年代はアメリカからアニメ映画が流入してきて、ポパイ、ベティ・ブープやミッキー・マウスの絵が新聞広告などによく見られるようになり、そういったアニメを視聴覚マンガに書き換えて掲載する新聞と雑誌(例えば:『東京日日新聞』と上述の『主婦之友』と『日の出』)まであったが、ポパイとミッキーの本来の新聞連載まんがを掲載したのは『新青年』のみだ。因みに、1931年4月号の新青年に載った「ミッキー・マウス」は日本の刊行物におけるミッキーの絵の初登場でもあるかもしれない(図25)。
『マンガ・マン』も同様に、集中的に一つか二つのマンガを連載するというより、アメリカの人気マンガを幅広く紹介するのが基本であったが、ハロルド・ネアー(※)が描き続けていた、元々ルードルフ・ダークスの作った「カッツェンジャマー・キッズ」だけはほぼ毎回載っていた(図26)。
(※)「Knerr」という苗字がドイツ系なので元々の発音は「クネル」に近いが、アメリカにおける発音は「ネアー」のほうが近い。
『マンガ・マン』や『新青年』といった例外にも関わらず1920年代後半以降、海外から輸入されるマンガの数が全体的減っていくのは、輸入する必要が徐々になくなっていったためであろう。1923年に「親爺教育」で外国製視聴覚マンガブームが始まる時点では視聴覚マンガ制作の豊富な経験を持っている日本人はまだいなかったが、視聴覚マンガの人気に触発されてその形態を徹底的に模倣し出す人が増えていく。そして国産の現代マンガの供給が拡大すればするほど、わざわざ海外からマンガを輸入して、翻訳のために絵を編集する手間を省くことができた。
1923年初頭に、最も影響力を持っていた日本漫画家の北沢楽天、岡本一平と宮尾しげをは三人とも視聴覚マンガに不思議なほど興味を示さなかった。上述の通り北沢楽天はアメリカのまんが界に詳しくて吹き出しを使うまんがも幾つか作っていたが、1920年代半ばまではコマまんが作品のほとんどが絵ばなし(音響のない絵と説明文の組み合わせ)のままである。岡本は1930年2月号の『婦女界』に掲載される「家庭の洋行」と同年7月~9月連載される「女中さんの洋行」(図27)という視聴覚マンガを描くまで、政治漫画と(本人が「漫画漫文」と呼ぶ)絵ばなしをしか描こうとしない。宮尾も、1929年に『マンガ・マン』に視聴覚マンガを載せるまで絵ばなしのみ描き続けて、岡本と同様、次第に人気を失っていく。
『時事新報』に1924年3月31日から連載される、北沢の弟子である長崎抜天が描く視聴覚マンガ「ひとり娘のひね子さん」(図28)には「補楽天」と付記されているので楽天は遅くともその頃には視聴覚マンガに関心を持ち始めたようである。長崎抜天はそれ以前の1月1日から「ピー坊物語」という視聴覚マンガを同じ『時事新報』の付録の『時事漫画』に連載しているし(図29)、楽天も1925年1月11日からオッパーの「ハッピー・フーリガン」を連載させるが、楽天が自ら視聴覚マンガを描くことは、視聴覚マンガが既に日本まんがの主流となっていた1928年までない。
北沢等1923年まで支配的な位置にあった漫画家が皆、海外から流入してくる外国マンガが起こす視聴覚マンガの流行に乗り遅れたことが新世代のまんが家に好機を与えた。国産現代マンガの先駆者になるのが麻生豊であった。「親爺教育」が『アサヒグラフ』に連載され始めたころ、麻生は『報知新聞』に絵ばなしのようなコマまんがを掲載しているが、編集者に奨励されて「親爺教育」の視聴覚的形態を徹底的に真似て、日本初の本格的な国産視聴覚的連載マンガを作り上げる(図30)。『報知新聞』における「呑気な父さん」(のち:「ノンキナトウサン」)というそのマンガの連載期間は三年半で「親爺教育」と「アダムソン」、「ハピー・フーリガン」より遥かに短いが、1926年12月『報知新聞』から消えても、1928年5月~同年12月に改めて『キング』に登場する上に、1930年6月~同年10月『読売新聞』で連載が続くので当時の読者には相当人気だったはずである。
「親爺教育」を模倣して「呑気な父さん」を作ったことを麻生本人が戦後インタビューで述べているにもかかわらず、ある日本まんが史学書は、あたかも「親爺教育」が日本現代マンガの祖先になるのを避けるかのように、戦前日本における外国マンガの数や一般的な人気と影響力を矮小化する上に、麻生が「親爺教育」から影響を受けたのが関東大震災後のことに過ぎないと主張し、「親爺教育」と「呑気な父さん」の密接な関係を否定する。しかしながら、1923年4月~6月の「親爺教育」と「ノンキナトウサン」(初期の標記は漢字とひらがな)を照合すると、そういった主張がいかに不自然な解釈によるものであるかが判明する。
先ず、麻生が突如、当時日本で連載されている何れのまんがとも形態が格段に違う作品(ただし「親爺教育」と「リトル・ジミー」を除く)を描き出した理由が、「親爺教育」の成功を除いては、他に見当たらない。しかも、仮に麻生が「親爺教育」を9月の関東大震災後まで模倣していないとすれば筋が通らない要素がある。コマと台詞の読む方向だ。最初から英語の原作の「左から右へ、そして下へ改行」という読む方向・順番をそのまま翻訳に継承させた「リトル・ジミー」に対して、「親爺教育」はコマと台詞の読む順番の様々な組み合わせの実験を経て、「リトル・ジミー」と同じく原作の順番をそのまま使うことに至るのが1923年5月16日である。最初に日本語の従来の順番(上から下へ、改行は左へ)をコマと台詞に当てはめていた「ノンキナトウサン」も同年6月3日以降突然台詞の読む方向を英語風にする。その二週間後の6月17日からはコマの順番も英語風になり、上から下へ書かれた表題以外は全面的にアメリカのコミック・ストリップとそっくりである。さらに一週間が経つと、6月24日からタイトルも英語のように左から右へ書かれるようになり、その形を連載が終わるまで継続する。6月24日のエピソードはさらに「YUTAKA ASO」とローマ字でサインされている(図31)。
麻生が3ヵ月前に流行り出した「親爺教育」を全く見ずに自分の描いているマンガをサインまでバタ臭く見せようしたのは果たして偶々だったのであろうか。今日は左から右へ進む横書きの日本語が標準となっているが、1920年代は横書き自体もまだ珍しかった上に、その9割以上が、今まで残っている老舗の暖簾ごとく右から左へ流れていた。従って仮に、麻生が「親爺教育」に関係なく、単に「やはり横書きがいい」と気変わりして「ノンキナトウサン」のコマと台詞の読む順番を変えたとしても、読む方向が右から左へとなっていた筈である。
しかも、初期国産日本現代マンガの中で英語風の横書きを使っているのは「ノンキナトウサン」だけではない。上述の長崎抜天の「ピー坊物語」も半分程度のエピソードがそうであるし、北沢楽天のもう一人の弟子の下川凹天も1924年5月から、コマは日本語の従来の順番を使いながら台詞は英語風の横書きを使用する、「新世帯」という視聴覚マンガを描く。連載期間を通してコマも台詞も外国まんがのように描く初期国産日本現代まんがとしては他に、同年6月から『読売新聞』に連載される「女学校出の文ちゃん」(図32)や、同年11月から『報知新聞』に「ノンキナトウサン」と並行して連載される「おそらトブタ六」、1925年10月から『万朝報』に連載される「ゴウケツ・ユーボー」等が挙げられる。1925年1月からは「正チャンの冒険」も同年4月まで英語風の横書きとなっている。
説明文に依存する従来の絵ばなしに「正チャンの冒険」が吹き出しを付け加えて、名残に過ぎない説明文を「ノンキナトウサン」が削除して、日本現代マンガが出来たという説が相変らず根強いが、図9からもわかるように、「正チャンの冒険」の説明文はそもそも、絵と吹き出しが語るストーリーをただ再現している余計な要素というより、むしろストーリーの不可欠な根幹であった。勿論、「正チャンの冒険」の吹き出しも上述のように英国のまんがに由来しており、そしてそのまんがの吹き出しもまたダークスとオッパーの作品に由来しているので、仮に日本まんがが視聴覚的になったのが「正チャンの冒険」に始まるとしても最終的にはその元祖は同じ「カッツェンジャマー・キッズ」や「ハッピー・フーリガン」となる。麻生豊とその他の初期国産日本現代マンガの作者達が1923年から突如日本に流入してくる欧米出身の視聴覚マンガを英語風横書きまで(あるいはローマ字でのサインまで)模倣していることが示すように、彼等は自分の描いている作品を「説明文を削除した『正チャン』風まんが」ではなく、「『親爺教育』のような外国マンガ」として捉えていたのだ。
麻生豊は主に「ノンキナトウサン」の創始者として記憶されているが、1920年代、1930年代を通して「親爺教育」に学んだ視聴覚マンガの枠組を利用して幅広い現代マンガを作り、その形態を日本で定着させていく。他のまんが家とも協力して現代マンガの技術を普及させたようだ。例えば、麻生は1930年7月~同年11月、以前から麻生のマンガを掲載していた『アサヒグラフ』においてまんが家の堤寒三と宍戸左行、柳瀬正夢との共作「四重奏」を連載している(図33)。柳瀬以外の三人は前年の1929年に、外国現代マンガを刊行する目的で設立された『月刊マンガ・マン』に寄稿しており、おそらくその時に連絡がついたのであろう。ちなみに、「四重奏」も三人が『マンガ・マン』に寄稿している他のマンガも、1920年代後半には既に珍しくなってきていた、欧米マンガ風のコマ・台詞の読む方向を使っている。
麻生はその共作者達にマンガの掲載の場も紹介したと考えられる。「四重奏」と同時期に彼は1930年10月15日まで『読売新聞』に「ノンキナトウサン」の続編も連載しているが、同月26日からの『読売新聞』は日曜版『読売サンデー漫画』にて麻生と柳瀬、宍戸の新しい視聴覚マンガを連載する(柳瀬のまんがは「金持教育」といい、明らかに「親爺教育」を捩ったタイトルであった)。12月7日以降は宍戸の後に有名になる「スピード・太郎」も追加される。
宍戸は以前渡米した経験があり、1929年に出版した本『アメリカの横ッ腹』の中で様々な米国マンガにも言及しているためか、アメリカまんがに影響を受けたのが海外においてであったと言われているのだが、宍戸が視聴覚マンガに専念するのは「四重奏」を描き始めてからであり、少なくとも1930年2月までは、1902年~1923年頃に日本まんがで主流だった絵ばなし(漫画漫文)を相変わらず描き続けている。
1920年代に外国まんがを通じて視聴覚的形態を吸収した国産コマまんがの状況を俯瞰的に見ると1930年代末までに絵ばなし・漫画漫文が減少していき、視聴覚的な現代マンガが主流となる。この過程においては『少年倶楽部』1931年1月号に連載を始める「のらくろ」の役割が特に大きかった。「のらくろ」の生みの親である田河水泡はが元々美術と落語に集中していたが、1928年からコマまんがを様々な雑誌に寄稿するようになる。しかし、「のらくろ」以前の田河まんがの殆どはまだ現代まんがのように視聴覚的であるとは言えない。それらの作品があまり成功しなかったのは恐らく田河の才能が足りなかったからではなく、既に時代遅れとなっていたのが原因だったのだろう。「のらくろ」の作成に当たって、外国マンガにより日本に導入された現代マンガ形態を田河が強く意識していたのは、その主人公からも分かる。1929年に「黒猫フェリックス」が『蜂雀』という雑誌において日本でも活躍し始めるまでは日本のコマまんがに擬人化した動物は皆無に近かった。絵巻物の「鳥獣戯画」にも擬人化した動物が登場しているから、日本マンガはそういったキャラクターの歴史が古くて海外からの影響とは限らないという声もあるが、田河がのらくろを生成する際に、8世紀程前に作られた絵巻物と、当時毎日曜『時事新報』で見られるマンガキャラクターとのどちらを頼りにしていたかというと、それが後者であった確率のほうが遥かに高いのではないだろうか。それに麻生豊と同様に田河水泡も時折、「のらくろ」を含めて、自分のマンガをローマ字でサインしていることからも「黒猫フェリックス」など外国マンガの影響が覗われる。
戦後日本のもっとも有名なまんが家となる1928年生まれの手塚治虫も、外国マンガが日本に運んできた、ダークスとオッパーに始まる現代マンガの系譜を田河、麻生等経由で間接に受け継いだのみならず少年の頃、まんが愛好家である父の書斎で『アサヒグラフ』や『新青年』の古い号を紐解き、ジグスとマギーやアダムソン等に親しんだ。1945年に描いた「勝利の日まで」にミッキー・マウスが登場することは比較的よく知られているが、「親爺教育」のジグスとマギーも二ページ分を占める(図34)。手塚自身もインタビューでジグスとマギーの創造者であるマクマナスから大きく影響を受けたと述べている。彼の大ブレイクとなった「新寶島」の名高いオープニングシーンに登場する自動車も、1923年12月7日の『東京朝日新聞』掲載の「親爺教育」、1924年1月2日の『アサヒグラフ』掲載の同作と『新青年』の1931年4月号掲載の「ミッキー・マウス」に出ている車と酷似している。
今の日本マンガは要するに神道のような、ゼロから日本列島に発祥した固有文化ではなく、むしろ茶道や寿司、テレビゲーム等のようにその原型が海外から輸入されたにも関わらず日本にしっかり根付いて、時とともに多様に変更・開発され、その結果世界中へ輸出されるようになった現象に当たる。言い換えれば、日本現代マンガは「海外から影響を受けた」というより、「もともとは海外の現代マンガと同一物であり、同じ起源を共有している」と言ったほうが相応しいのではないだろうか。この史実を認めると日本マンガの「特別さ」が失せるかもしれないが、映画よりもいち早く登場人物の動きと台詞を同時に再生することに成功した、世界初の視聴覚的な複製芸術と言えるマンガを既にほぼ一世紀前から世界中の人が共有していることが、筆者には喜ばしいこととと感じられる。
(アイケ・エクスナ/ Eike Exner)
2022.8.16